■はじめに
文部省活字は1935年の第四期国定教科書、尋常小学国語読本巻五から使用がはじまった活字で、そのひらがなの字形はとても優美で柔らかく平安朝を思わせるものでした。種字は細字書家の井上千圃氏で、その後の写真植字の文字のデザイン作りにも大きな影響を与えました。
その井上氏は教科書が手書き文字の時代から一貫して版下を担ってきましたが、第三期国定教科書(旧読本 1918~1932大正期)までのひらがなの字形は、同じ書家が書いているにも関わらず第四期(新読本 1933~1940昭和初期)とかなり違うものになっていました。
そこからどのように平安朝のひらがなの字形に変わっていったのか、種字の制作に関わった当時の方々の談話を、文部省活字の復刻(フォントの使用方法)とともに記事にしていけたらと思います。
※記事の内容や選定資料につきましては清水文博様の論文「平仮名学習における教科書体 −国定第四期,第五期教科書を中心に−」(新潟大学教育学部研究紀要第11巻1号 2018.10 p91-109)を大変参考にさせていただきました。心より御礼申し上げます。
■教科書の版下を作る際の苦労
国が検定を行う国定教科書が1904年(明治4年)にできてから、国語の教科書は読み方を習う「読本」と書き方を習う「書方手本」が発行されるようになりました。
書方手本の特に低学年については日高秩父氏が担当していましたが、読本は細字書家の井上千圃氏が一手に引き受け版下を手書きで一枚一枚書いていました。
膨大なページ数の版下を手書きで書いていくため下記のような苦労があったそうです。
■乙種書方からの指摘によるひらがなの字形の改正
第四期国定教科書になると「書方手本」の書家が甲種鈴木翠軒氏、乙種高塚竹堂氏となりました。特に乙種の高塚竹堂氏は仮名書の大家で、文部省図書監修官を通して旧読本での井上千圃氏によるひらがなの字形について、「古筆にないので改める必要がある」等細かく指摘があったそうです。児童は書き方と読み方両方を同時に習うので、ひらがなの字形が乖離していては学習する上で具合が悪いのも理由みたいです。
井上千圃氏は大変器用な方でもあり、第四期国定教科書(新読本)から大幅にひらがなの字形を変更して版下を作るようになりました。新読本巻三は特に古筆を意識したひらがなの字形となっています。
ひらがなの字形の改正について当時の文部省図書監修官各務虎雄氏は次のように話されています。
下図は先述の著しく字形の変化があったひらがなの一覧で、上段は旧読本のひらがな、下段は新読本の改正されたひらがなです。どのように字形が変化したのかお分かりいただけると思います。あわせて当時の書方手本も参考で載せました。
筆者個人の意見ですが、上記図の井上千圃氏のひらがなの字形は、その当時の甲種書方手本の書家日高秩父氏のひらがなの字形に寄せてるように見えました。旧読本のひらがなの字形は、井上千圃氏の書きグセだけで出来上がったのではない気がします。参考として下図に最初の引用で指摘されたひらがな以外の図を載せました。
「か」の一画目の高さや「う」の点画の位置の変更が特徴的です。新読本巻三で離れていた「ゆ」の円をえがく箇所は画数が変わってしまうため新読本巻四や巻五の文部省活字では離れないように修正されています。
■国民からの意見書と漢字の改正
一方漢字について、第三期国定教科書の時期には文部省に「教科書の字が間違えている」との意見書が多く来ていたそうです。「辞書の字と違う」というのが理由でして、それから文部省は字体の研究を行い、第四期国定教科書の時期には漢字について「間違えている」との意見書は来なくなったそうです。文部省図書監修官佐野保太郎氏は次のように話されています。
先述の漢字の字体の研究とはどういったものか、漢字の選定について実践小学国語読本解説巻四にて津々美信三氏は次のように記されています。
また読本の教材の指導方法や研究を行った東京高等師範学校訓導佐野末吉氏は、新読本の漢字一つ一つの具体的な字形について「生活学習小学国語読本の指導」の中で次のように記されています。(要約です)
なお「閒」は巻五の文部省活字になる際「実用的でない」とのことから「間」に戻っています。
■文部省活字の制作経緯とその苦労
新読本である第四期国定教科書では、低学年を中心に内容が増加されることとなりました。具体的には旧読本巻五は102項の18字詰8行だったものが新読本巻五は130項の19字詰9行と、全般的に内容は約4割増加とりました。
こういったことから、今までと同じペースで井上千圃氏が手書きの版下を一枚一枚書いていくのでは、教科書の完成が間に合わない状況となってきました。また本文の修正も容易ではないことから文部省独自の活字を新たに制作し、新読本巻五からは活字での印刷をするようになりました。
その経緯を文部省図書監修官井上赳氏は次のように話されています。
また井上千圃氏が文部省活字の種字を作る際の苦労を見ていた五島治雄氏は次のように話されていました。
実際出来上がった文部省活字について、井上赳氏は座談会の中で「(巻五は)普通の活字の大きさにすると、何号くらいに当たりますか?」との問いに「20ポイントです。」と回答され、字形についても「今度は活字になって、どこか垢抜けがしたでしょう。書いたもの(注:手書きの版下)もいいが何だか土臭い。それにその時々の書手の気分で字の大小が動くから困る。三の巻は字が細く、四の巻は馬鹿に太く、ちょっと逆になりました。」と、文部省活字は今までの手書きの版下よりデザインがよくなっていることを述べられています。
(参考:教育研究433 国語研究部 「新読本巻五について(井上赳先生御講演後の座談会記録)」 1935.5.1 p138)
このようにして完成した文部省活字は下図のように新読本巻四以前にくらべて非常にスッキリしています。下図は復刻した文部省活字で記事用に改めて作成した再現ページですが、活字復刻の際の文字の選定や書式設定についてこのあとは述べていきたいと思います。
■活字の大きさが20ポイントのものを復刻
文部省活字の復刻には新読本、小学国語読本巻五~八で採用された大きさが20ポイント活字を参考にしています。小学国語読本巻九~十二で使用された18ポイント活字も別でありますが下図のように字形が異なっていてることや、20ポイント活字が文部省活字としての最初の活字であること、その後の写真植字の文字デザインにおおきな影響を与えたことからそのようにしました。
ただし国語読本で収録されなかった「ぷ」と「ヌ」は同じく20ポイント活字の尋常小学修身書児童用巻三・四を、「ペ(カタカナ)」は活字の大きさが異なるものの20ポイント活字と骨格やデザインがほぼ同じである尋常小学算術一年下を参考にしています。数字や横書き用記号も尋常小学算術一年下を参考にしています。
また横書き用の「ー(長音記号)」は尋常小学算術ではマイナス記号が代用され、カズノホンでは縦書き用の長音記号を90度倒して代用されている等実用的なものがなかったので新たに制作しました。カタカナの一部を除くほとんどの拗促音も初等科国語一・二とヨイコドモ下を参考にし、足りないものは新たに制作しています。
■書式設定について
20ポイント活字を復刻しているため本来であれば字幅を7.028mmにしてフォントを制作すべきではありますが、写植書体の教科書体と違和感なくレイアウトできるようにしたため、字幅は7.3mmと設定しました。下図はイラストレーターでの書式設定の一例です。
フォントサイズは29.2Q、行送りは50.6H、トラッキングは86で違和感なく文章が打てます。
■小学国語読本巻五~八の実際のレイアウトについて
この記事で筆者は「20ポイント活字」と申し上げていますが、実際に小学国語読本の巻五~八を物差しで測っていきますと字送りはおよそ7.9mm(22.5ポイント)でした。活字の大きさは20ポイントですので字間は2.5ポイントとなります。ただし句読点や鉤括弧はその上の活字のボディーに食い込んでるように配置されているため、レイアウトを実際の小学国語読本のようにしようとすると下図のように手動カーニングの設定が必要となってきます。二の字点は字間に配置してあるためこれもカーニングを手動で設定し、その後の句点等でアキを調整しなければならず非常に面倒な仕様となっています。
また、くの字点は頻繁に出てきますが、濁点ありとなしで大きくデザインが変わってきますので、他の繰り返し記号の垂直比率を200%にして代用しています。
鉤括弧のうち句点と同じ位置にあるものについては上図のように《》、【】で代用しています。二の字点については〆、くの字点については〃と仝で代用しています。フォント制作プログラムの仕様でこのようになりました。また活字についてほとんど知識がないため書式設定の操作方法やこの記事の表現についてもおかしい部分があります。どうかご了承ください。
■復刻した20ポイント文部省活字について
復刻した20ポイント文部省活字は「オールド教科書35かな」として公開しています。利用規定をご覧の上ご利用ください。
下記はおよその収録漢字です。小学校低学年で習う漢字を中心に、書体として特徴のある漢字を171字制作しています。「体」や「月」など一部の漢字は旧字体や正字等になっていますがオリジナルを尊重しそのままにしてあります。