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2014年6月の記事一覧
天狗杉武者震ひして雪落とす
雪解水がちょろちょろ山道を走り始めると春の到来である。日射しは明るく、万象が蘇ったように輝いて見える。ほころび始めた雪間からは、ものの芽が顔を出し、総身に雪を被いて立ち往生したかのような大樹も
生きておるぞ! と、ばかりに自己主張して震える。生きとし生けるものの全てが復活の春を賛美し始めるのである。
土に帰す花柊のこぼれかな
暖かい冬の日に誘われて外に出てみると、庭隅のひいらぎの花は早や散りそめていて、その足下の土を白く染めている。うち屈んで近づくとこぼれ花のほのかな香りが伝わってきて心地よい。
ふと詩篇90篇モーセの詩を思い浮かべていた。
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ」と』
私たちの肉体も、やがては朽ちて土に帰っていくことと思うけれど、召しのあるその時までキリストのよき香りを放つ
時計台聖夜の針を重ねけり
聖歌隊が「ハレルヤ」と歌いおさめると、やがて手に手にペンライトを持ってキャロリングに出発する。
星空高く聖夜を刻む天文台の大時計を仰ぐと、とても満たされた気分になり、手足の悴むのも忘れる。終末の到来かと思われたあの阪神淡路大震災で子午線の大時計は動かなくなった。
もちろん時間が止まることはなかったが、修復が終わって再び時を刻むようになったとき、胸が熱くなるような感動と復活の喜びを実感した。
寝ころべば地球が回る鰯雲
秋の野に臥せて大空を仰ぐと動いているとは見えなかった鰯雲が粛々と進んでいるのに気づく。
その雄大な情景に心を遊ばせていると大宇宙の全てを支配される神の存在と、いと小さき自分との対比をあらためて実感するのである。
ふたたび眼を地上に戻せば、梢で唄う鳥や野の花たちもまた健気に語りかけてきて、明日を思い煩うことの愚さを教えてくれる。
私たちが意識してもしなくても、大自然の摂理は全てみ手の中にあり、
ゴルゴダの丘の永き日思ひけり
島四国遍路で知られる小豆島はキリスト教とも縁が深く、いまも桟敷タイプの古いチャペルが残っている。
オリーブ園の丘の上には見上げるほどの大きな十字架が建てられてその足元にある碑には、島の殉教史が記されている。この丘のうえから一望できる穏やかな瀬戸の内海の景はガリラヤの海に似ているとも言われる。
ガリラヤ湖畔でイエスは多くの教えをなし多くの奇跡を行われた。
丘の上の大十字架の下に佇って昏れなづむ
室咲と窓際族にさす日かな
自分は窓際族ではない・・と自答してはみるが、若い連中のはつらつとした言動に馴染めないで居る自分を不甲斐なく思って落ち込むこともある。
窓側の席は明るくてよいのだが、寒い曇天の日には足腰に冷気がこたえる。
ま、これが窓際族の悲哀かもなどと新聞に目を通していると、
「新しく預金口座を開設すると花鉢をプレゼントします」
という銀行のキャンペーンを見つけたので、早速昼休みに出かけていって木瓜の花の
福音の使ひのごとく初蝶来
春先になって最初にあらわれる蝶を初蝶という。小さくて力弱く群を作らずにただ一匹で舞う姿は、春の訪れを知らせてくれる。
このような小動物に親しみつつその営みを観察していると、私たちもまた神によって生かされていることを深く覚えるのです。
小動物や植物は言葉を持たないけれど、自然の摂理のままに生きることによって健気に神を証ししている。
福音を伝えるのに理屈や努力はいらないと思う。育む生活の中に喜び
今日明日の命と思ふ牡丹あり
モーセの作と言われる詩篇90篇には、
『人生は70年、長くても80年。そのいずれであれ私たちの人生は短く、私たちは飛ぶようにこの世の人生の舞台から去って行く』と書かれている。
人生の日数を数えて、その長短を認識するというのは、生後数ヶ月の命で病で亡くなるから、或いは20才の若さで事故でこの世を去るから人生が短い、等々のことではなく、それが何才であろうと、よし長寿であろうと、人間の人生というも
手花火のこれからといふ玉落つる
豪快な打ち揚げ花火の音を聞くと血が騒ぐという人もいるけれど、ぼくは小さな線香花火に郷愁を感じる。
かすかな記憶の中にある幼い頃の自分、行水から上がると鼻の頭に天花粉を塗られ、家族みなで輪になって花火を楽しむのである。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉が怖くて小さな手がおどおどと震える。
その小さな手を包みこむようにして励ましてくれた温かい母の手の感触を今もはっきりと覚えている。
昨日のことは直ぐに忘