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どうして季語が複数あってはいけないのか
一句の中で季語の果たす役割はとても重要で、季語が複数ある(季重なり)と俳句で最も大切とされる季節感があいまいになってしまいます。
季語は一句の要ですから、二つあると焦点が二つあることになり、 写真で言うとピンぼけのようなシャープさに欠けた句になって切れ味を失います。
同季の季語重なりなら句の内容によっては許容できるケースもありますが、季の異なる季語が重なっている場合は、俳句とは言えません。
虚構の句は人の心に感動を与えることは出来ない
虚構やフィクションは正しい伝統俳句の世界では通用しません。
俳句は作るものではなく事実の感動を言葉で写生するものです。
ある程度写生の修練を積んだ人なら、その作品が事実に基づいた写生か頭で考えた虚構であるかは簡単に見抜くことが出来ます。
もし虚構で着飾った作品に共感する人がいるとしたら、その人が虚構を好むのであって、 ことばあそびと感動とを勘違いしているのだと思います。
伝統俳句とい
俳句は作るものではなく授かるもの
知識がないから、経験が未熟だからいい俳句が作れない・・・
それは違います。俳句が詠めないのは、神さまが生まれながらに備えてくださっているはずの感性、感じる心を忘れてしまっているからです。
俳句は祈りによく似ています。美辞麗句を並び立て、聴く人の耳に心地よい(祈る本人にとっても)祈りは、決して本物ではありません。
たとい表現や言葉は拙くても神を信頼した心からの祈りは他の人にも共感を与え、必ず
季語の有無より季感の有無を意識しよう
ある句会のあと先生を囲んで、あれこれと俳句談義に花が咲いた。
そのとき誰かが、今日の句会で先生が選ばれたうちの一句は無季の句だから没ではないのか、と発題して議論が沸騰しました。
その句に使われた季語はどの歳時記にも載ってないからというのである。
そのとき先生は、
季語の有無より一句の中に季節感があるか否かが大切だと言われ、目から鱗の落ちる思いがしたことを、今も忘れません。
いいかえ
季語がもっている本質を理解しよう
俳句の訓練の中で最も大切なのは、「句材のとらえ方」です。つまりこれは感性です。その次に大事なのが、その一句を仕立てるために、いかに上手に季語を組み合わせるかということになります。
的確な季語を使うためには、季語の本質を理解する必要があるのですが、これが簡単そうで実は難しいのです。
つまりそれは、理屈や知識で理解することではなく、直感的な感覚として、身体に覚え込ますことが大切なのです。
た
博識な人ほど俳句の上達が遅いといわれる理由
内緒ですが、面白いお話しをしましょう。決して他言しないように・・
俳句結社にはいろんな職業や経歴の方が集まっています。それぞれ個性的な方ばかりなのですが、俳句の上達という点ではある傾向があります。
言葉や漢字に詳しい国語の先生とか俳論・歴史・地理などいろんな知識に長けていらっしゃる博識の方は総じて上達が遅く、学識も乏しくおよそ文芸とは関わりのないような技術系の人のほうが案外はやく上達するのです
季語の約束に束縛されないで自由に俳句を詠みましょう
使われたことばが歳時記に載っていないからといって、無季だと決めてかかる人がいますが、これは間違いです。 季語の有無云々ではなくて、一句の中に季感が存在するか否かを問うのが正しい俳論なのです。
俳友のきみこさんの句を見てみよう。
植え終へし棚田に風の生まれけり きみこ田植えという季語は使われていませんが、『田植えの終わった棚田に』とい句意であることは瞭然です。ですから立派な田植えの句なのです。
出来るだけ平明なことばを使うように心がける。
俳句は難しいことばや漢字、熟語などを使うものだと考えている人が多いですがこれは間違いです。
俳句や詩と言うのは鑑賞する人の心に瞬時に直感的にひびくものです。
難しいことばを記憶の奥から引っ張り出してきたり、辞書を引いたりしてようやくその意味を理解し、そしてやおら感動するというような人がいるでしょうか。
格調高いことばや回りくどい表現をしないと俳句らしくないと勘違いしている人は意外と多いのです
季語についての基礎知識を身につけましょう。
俳句を詠む場合に季語は必須ですが、守るべき約束があります。
・一句の中に季語は一つ
・季語が動かないこと
・季語の説明をしない
・季語が憑き過ぎないこと(離れすぎもいけない)
基本的なことはこの四点です。
折々説明しますが、今回は「説明・憑きすぎ」について書いてみます。
まず一例をあげましょう。
「石鎚や青々として梅雨明ける」
山が青々として見えて、ようやく梅雨が明けた