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ある労働運動指導者の遺言 足立実の『ひと言』第71回「偉大な自前の経験 ソ連崩壊」 1991年9月10日

 私は敗戦のとき十七才の軍国少年だった。戦後の自暴自棄の生活の中で、「大東亜戦争」は資本主義の必然的結果としての侵略戦争だという話を聞いた。その人はレーニンがそういう分析をしたんだと語った。全く納得のいく話だった。
 この時から、私は平和と労働者の幸福は資本家と闘う以外に守れないと思い、労働運動に参加して現在に至っている。
 だから、目を開いてくれたレーニンの銅像を、クレーンで撤去する光景をテレビで見て、「チキショー! やめさせる奴はいないのか」と気を揉んだ。
 私たちは労働者が人間らしく生きていくために、資本の不当な搾取・抑圧に敢然と対決し、戦術を駆使して寄ってたかって闘い、学習して絶えず質を強めるという方針を堅持しているが、これはマルクスの階級観点と大衆路線から学んだものである。この観点は組合の闘いを勝利に導く思想的武器だったと思う。
 ソ連社会主義の失敗が、いかに惨たんたるものであるにせよ、人類史上はじめて勤労者が政権の座につき、自前で国の政治経済を運営した偉大な経験だ。
 日本の労働運動もその流れの中にあったのだから、ソ連の経験を真剣に総括して、日本の政・官・財界の腐敗を改革し社会主義を成功させれば良いと思う。
 反動どもはマルクスや社会主義を悪の根源のように言って、私たち労働者に社会主義を断念させ、資本家の奴隷の座に縛りつけようと躍起だが、こんなペテンこそ徹底的に失敗させよう。 (実)

(画像は撤去されるリトアニア・ビリニュスのレーニン像〈1991年8月23日〉)

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注釈

・ソ連
ソビエト社会主義共和国連邦1922年から1991年までユーラシア大陸北部で、現在のロシア共和国の大部分を占める地域に存在した社会主義国家。

・「大東亜戦争」
太平洋戦争に対する当時の日本指導者層による呼称。太平洋戦争開始直後の1941年12月12日、政府が「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」としたことから生まれた。太平洋戦争という呼称がアメリカ側からみた呼称であるのに対し、中国を中心とする東アジアを主戦場とする日本の戦争目的により合致してはいるが、「大東亜」解放の「聖戦」とした日本側の宣伝臭が含まれているため、戦後はあまり使用されていない。
筆者も「」書きで使用している。

・レーニン
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1870年~1924年)
ロシアの革命家、政治家、哲学者。ロシア・ソビエト社会主義共和国およびソビエト連邦の初代指導者。

参考

【ウラジーミル・イリイチ・レーニン】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3

・マルクス
カール・マルクス1818年~1883年
ドイツの経済学者、哲学者、革命指導者、科学的社会主義、マルクス主義理論の創始者

足立実の『ひと言』第17回 「投降主義に反対しよう-全民労協批判」参照https://note.com/minoru732/n/n22a43b8d057c

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1991年12月25日、ソ連のゴルバチョフ大統領が辞任し、これを受けてソ連邦を構成する各共和国が主権国家として独立した。

それはこのコラムが書かれた後のことであるが、この年の8月、保守派グループが権力奪取をめざしてクーデタをおこしたものの、ロシア共和国のエリツィン大統領が民衆とともに反撃しクーデタは未遂に終わった。この過程でソ連共産党の権威が失墜し、ソ連邦を構成する共和国のすべてが独立を宣言し、ソ連崩壊は決定的になっていた。

これにより、1917年にレーニンの指導によって起こされたロシア革命で成立したソビエト連邦は崩壊した。

この「ソ連崩壊」の年、筆者は63才であった。社会主義革命を目指して労働雲運動に没頭してきた筆者にとっては忸怩たる思いがあったのであろう。

管理人はこの年は24才であった。歴史の必然として冷静に受け止めた。

筆者が言うように「ソ連社会主義の失敗」はまさに「惨憺たるもの」であった。確かにソ連社会主義の成立は「人類史上はじめて勤労者が政権の座につき、自前で国の政治経済を運営した」偉業であった。しかしそれが何故70年あまりで挫折してしまったのか?崩壊後30年を過ぎても実践的に「ソ連の経験を真剣に総括」はされてはいなのではないだろうか?

筆者はレーニン像がクレーンで撤去される光景をみて地団駄を踏んだようだが、レーニンは自身の銅像についてこう言っている。

「ハトが喜ぶだけだ」と。

レーニンは唯物論者らしく偶像崇拝を嫌い生前から自分の銅像が造られることに否定的であった。

レーニンの思想は銅像や石膏、またその後防腐処理された遺体の中にあるのではない。

それは歴史の中にある。

今、レーニン主義を解体するのか、それとも継承するのか?

レーニン没後100年近く建つが後世の私たちの残された重大な課題ではないだろうか?

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