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障害者と親の関係をどう表現するか

みなさんごきげんよう。

この記事を読んでいただいているあなたが障害者か健常者によって障害についての理解は変わってくると思います。当事者かそうでないかはやはり埋め難い差があります。しかし私は両者問わず記事を読んでほしいと思っていつも記事を書くようにしています。

私の障害に関する考えは障害者界隈の主流からはだいぶ違う考えでしょう。だからこそ障害者と非障害者の双方からの反応がほしいと感じています。

さて、今回私が話したいのは「障害者と親」についてです。障害者と親の問題と一口に言いましても色々あります。

一般の親子間によくある「親の性格に関する問題」「お金の問題」や障害者特有の「親と障害者の介助問題」についてなど。

私が今回、みなさんに考えてほしいのは「先天的に障害を持つ障害者はその親を非難できるか?」という問いです。

これは言い換えれば「障害者を産む親に非はあるか」ともなります。

この問題は古くから存在し同時に多くの障害者と健常者が避けてきた問題でもあります。

理不尽を感じても親のせいにするのは心苦しいものがありますし、障害を持って生まれたのが親のせいだとすると自分の存在そのものが失敗であるかのように感じられみじめにも感じるからでしょう。

またはこの記事におけるこの問題提起自体が幼稚なものに感じる人もいるかもしれません。

私も長らくそう考えていました。子供の頃から「障害者として生まれたのは単なる不運であり両親もわざとそうしたわけではないと」

しかし、30歳を前に考えが変わっていき「故意でないから」と早計に断ずるのではなくもう一度考え直したいと思うようになったのです。

「障害者として生まれたのは単なる不運であり両親もわざとそうしたわけではない」というのは割り切りですが悪く言えば思考停止ともいえます。

どちらであっても今から答えを出しても遅くはないはずです。

そしてもう一つ、この手の内容の発信は情緒的観点から受け入れづらいという面は間違いなくあります。

当記事を含めて障害者になったことを親にまでさかのぼって論じるのは「けしからん」というかたが必ず出てくるでしょう。

しかし本当にそうでしょうか?

これは私たちのルーツであり存在に関わる問題です。そして先天性の障害者はその両親によって生まれながら障害者というレッテルを貼られた状態で死ぬまで存在します。

障害者は障害者という枠を超えて生きることはできません。障害を持って生まれた時から障害によって不利益を被ることが約束されています。

当たり前の話ですが先天性の障害者は中途障害者と違い最初から障害者として存在を固定され最初から障害の不利益を被ることが決まっています。

にもかかわらず自身を「障害者」にした両親についてその責任や非を考察したり論じたりするのをはばからなければいけないのは奇妙なことであると考えます。

自分を車ではねた加害者の責任を被害者が考えるのがおかしなことでありましょうか?

行為者がある行為を行った場合にそれが故意かそうでないかは重要です。しかし不慮の事故であっても罪がゼロになることはありません。

人が他者を車ではねた場合、故意か否かで罪の重さは変わるでしょう。しかし無罪放免にはなりません。これは故意でなくても加害者による行為と引かれた側の人間の被害が残るがゆえです。

親が障害者を産んだ場合その行為と結果が問題であると私は考えます。

先天的に障害を持った障害者の中には親に申し訳ないと感じる人がいるようです。しかしこれはどう見ても不思議なロジックです。第一原因は父と母にある(遺伝性疾患であるなしに関わらず)のにどうして受け身側が負い目を感じる必要がありましょうか?

障害の始まりは仮にそれが先天性であってもその行為者であるその親にあり障害者本人ではありません。障害者というのは生まれながら受動的な性質を持ってこの世に生まれてくるのです。そして社会に適応できるのは皮肉なことに能動的に自分を環境に適応させることができる人たちです。

では障害者とその親の関係の本質はどのように表現できるでしょうか?

私は障害者とその親は「賠償」の関係によって説明できると考えます。

障害者の親によって子が先天的に障害を負った場合、親にそのサポート(介助)してもらうことで贖うというものです。いわば子を障害者に産むという行為を父母の罪と捉えるのです。損害賠償の考え方は最古の法典であるウル・ナンム法典から存在しますがもちろん子を障害者にすることが罪であるとは古代から現代まで言われてきませんでした。

現実として障害者の親子関係における賠償は障害の程度によって変わってきます。より重い障害には多くのサポートいう名の賠償が必要になります。これは事故を起こした際にその損害の程度によって損害賠償の額が変わるのと同じことです。

先天性の障害者は自らを障害者にした加害者によって扶養される屈辱を負っています。これは先の賠償の論理によって納得できると私は考えます。

親子間の関係は情緒的な観点や個人の経験から語られることが多いのですが賠償の考えによってそこから脱却することができるしょう。

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