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仏という猫

この写真は違うのですが、我が家の近所に、「仏」と呼んでいた老猫がいました。

仏は、骨が縮んで毛並みもバサバサしていて、いつも殆ど目を閉じて、あるお婆さんの家の目の前に貼り付けたように鎮座していました。

真夏の日に仏の姿を見ると、少しハラハラしつつ、暑さなど感じてないようなその佇まいに、仏と呼びたくなる趣きを感じました。

仏は、半分はお婆さんの飼い猫で、半分は生涯野良だったのだろうと思います。
大体同じ場所に鎮座しているのですが、時たま、少し離れたところを歩いている姿を見ると、おお、仏がお出向きになってる、とちょっとぎょっとしつつも、ちゃんと動いていることに安心していました。


一度、深夜の帰り道、きっとこれはよくない事だったと思うのですが、仏の前に、わたしはチキンを差し出した事があります。
香りの強いチキンに、仏は目を開ける事もありませんでした。
もうそれは、痺れるほどの無関心でした。

単純に、年老いすぎていて、そんなものを食べる気力すらなかったのでしょうが、それからわたしは、仏へ対する畏敬の念を深めた気がします。


ある頃から、仏は姿を見せなくなりました。
真夏が過ぎた頃のことでした。

夏の夜に、一度だけ、仏に触った事があります。
酷い手触りでした。
毛並みに柔らかさはなく、ざらざらして、縮んだ骨が奇妙にでこぼこしていました。
今年の夏を乗り越えられるのかな、と、うんと前から知ってるみたいに、同居人と一緒に仏に語りかけました。


お婆さんの家の前には、仏のためと思われる餌皿と座布団が置かれていたのですが、いつの間にかそれは無くなっていました。
時折り、餌皿から狸が餌を強奪していたし、仏がその座布団で寝ているのを見たことはありませんでしたが。


あぁ、小さな命だったんですね。


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