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【小説】Ⅰb.(b)008

 美大の教授なんてのは、一皮剥けば狂人であって、何をやらかしてもおかしくないと思っている。教授が自分の作品とSEXしてるのは、エロ漫画家が自分の作品でセンズリしてるのと大して変わらない行為だと思っていたのだが、アダルトサイトに投稿された動画は、単なる変態というだけでは片付けられなかった。
『美大の名誉毀損教授w』
 大学の崇から送られてきた動画は、手ブレが激しく、時々撮影者の指なんかが映り込んでしまってる典型的な素人映像だった。映像を専攻してる身からしてみれば悪い見本そのまんまだったが、その分ブレアウィッチ・プロジェクト以上のリアルさがある。なんてたって時々不意に現れる指には血がついてたりするからだ。
 部屋の中は薄暗く、被写体は分かりにくいが、崇に言われて、現代美術の渡邉保だと分かる。渡邉は全裸のまんま椅子に腰掛けて、座位の体制で、ひたすらSEXに集中していた。ビール腹には所々毛が生えて、汗で湿った髪の毛は顔にへばりついているが、両手両足片チンポ全て使っているので、時々犬や猫がやるように顔をぶるぶると振るわせる。滑稽といえば滑稽と言えなくもないが、知らない人間からしたら、渡邉なんてAVの汁男優ぐらい取るに足らない存在だ。
 眼を奪われるのは相手の方だ。それは人間の形をした何かだった。なんと形容すればいいのだろう。人の形をした肉の塊というか、顔を顔たらしめる眼や鼻や口がなく、胸やお尻すらも混沌としていて、人間の抽象絵画が実在し、渡邉と交わっているようだ。そして、段々と私の眼が慣れてくると、更に奇妙な現象が起こる。その何かが私のよく知る人間に見えて来るのだ。それは、大学の同級生であり、友人でもあり、片想いの相手である真果だった。
 私は凍りついた。そして、直後に悲しいぐらい興奮した。
 自宅に1人でいるのをいいことに興奮に身を任せ、ジーンズを脱いで、パンツも脱いだ。私のチンポは既に固く勃起していた。
 ひたすらにチンポをしごいていた。勢いがよほど激しかったのだろう、チクッとした痛みがあり、見下ろすと、手にもチンポにも血が滲んでいた。力が強かったせいて包皮の一部が擦れて赤くなっている。それでもしごくのを止める理由にはならなかった。
 真果とは男女を意識することない付き合い方をしていた。口には出さずとも真果がそういう距離感を私に求めているのが分かったからである。そして、真果には別に好きな男がいた。崇だった。
 崇が真果のことについて私に話すことはない。というか、崇は自分のことについてはほとんど開示しない。だが、真果と一緒にいれば分かる。ほんの僅かな笑い声の違いに、こっちを見る目線の揺らぎに、話しをする時の手振りの角度に、2人が既にSEXをしていることを知ってしまうのだ。
 だからと言って、私が真果のことを忘れて他の女に走ったり、崇と距離を置き、別の友達を作ることはない。なぜなら、崇と真果が恋人同士になり、お互いに激しく求め合ったとしても、2人は私が好きな人間であることに変わりない。ただ、底が抜けたような深い無力感があるだけで、それはある夜には悲しみに変わり、朝にはやはり別の悲しみになったりするのだが、とにもかくにも私自身の問題である。2人の関係と私個人の感情は切り離して考える。でないと、私はもはや私でいられなくなり、誰かに迷惑をかけてしまうような行動をとってしまう気がする。
 しかし、この動画の中に真果を認めたとき、狂おしいほどに嫉妬し、自分勝手に真果とSEXをしたかった狂おしい願望が亀裂から激しく噴出していた。だから、ひたすらにチンポをしごき続けているのだが、時間がどれだけ経過したのかは分からない。性欲に係る時間経過の速度はとりとめがないのだが、それでもいつも私が射精にかかる時間はとっくに過ぎていることは分かる。
 精液の代わりに涙が出ているのだが、これが何の涙かはしれない。私はこの動画に遭遇し、チンポをしごいたことによって、真果を永遠に失ってしまったかもしれない喪失によるものなのかもしれなかったが、果たして分からない。
 涙は小便と違って、勃起の妨げにはならなかった。動画が終わるのと頃合いを見計らうように無理くり射精した。いわゆる射精のための射精という快楽をあまり伴わない種類の射精だ。でも、出さないわけにはいかなかった。もし、射精をしなければ、気持ちの持っていきようはこの狭い家に収まるはずがなかった。
 死に似た脱力感の中では、もはや誰に対しても特別な感情を持つことはなく、ベッドに大の字になって、傍らに深海魚の吐息のような臭いをかすかに放つ自らの精子を包んだティッシュペーパーがあり、部屋を暗くして私はじっと目を開け続けてその日が過去に引きずられていくのをじっと待っていた。
 一介のアダルト動画サイトにある無数のエロ動画の一つとしては、驚異的な再生数がこの動画は叩き出していた。人から人へスクリーンを伝いながら伝播していく。いつの間にかコメント欄で渡辺保はモジャ公と呼ばれるようになっていて、通学途中の電車の中で吹きそうになった。渡邉がSEXをしていた人型に私が真果を重ねたように、掲示板でも同じような現象を体感したとの記載が連なる。鬱陶しいぐらい重々しい言葉でクソ真面目に書いている奴もいれば、某宗教団体お得意の降霊術と絡めて論じている奴もいて様々だったが、ここにわざわざ時間を割いているといるということは、皆一様に感銘し、抜いているのだろう。
 大学で最も座席数が多い講堂で普段は大して人が入らない渡邉の授業は、モグリがいるのではないかというぐらい盛況で、空席を見つける方が大変だった。男が大半であったが、女もちらほら混ざっていた。
 いつからか置石を呑み込んでしまったかのように気分が重く沈み、何をするにつけても一度海面から顔を出すような踏ん張りがいる状態が常だった私の心持ちも、この時ばかりは純粋に渡邉の挙動に胸が騒いだ。
 渡邉はいつものように思索をしている詩人と夢遊病者のやや後者に寄っているような独特な歩き方で入ってくる。
 教壇について、満席の座席を一瞥したあとで口を開いた。
「オレは被害者だ。そして、犯人はオレの妻だ。勝手に盗撮しやがった。離婚届を突きつけようとしたら、逆に向こうから判押したものを送りつけてきやがったよ。」
 渡邉は自虐的に笑った。聴衆は何人かが細波のようにくすくす笑うばかりで、静けさの方が優っている。
「自分の都合のいいことを求め、他人の都合の悪いことを望む。インターネットは露悪空間だ。だから、オレはできる限り距離を置いてたが、最後の最後で足を引っ張られた。」
「教授、講義に入らないんですか?」
「ウルセェ!!」
 渡邉は発言した学生に向かって強く一喝した。
「まぁいい。オレの表現や作品はオマエらに理解してもらおうとは思っていない。気紛れにちょっと覗いてみたが、どいつもこいつも蛆がわいた書き腐れで、すぐに吐き気がして見るのを止めたよ。」
 直後、渡邉は激しく咽せた。中年や老年特有の烈しく喧しい咽びが教室中に反響した。何人かが顔をしかめ、何人かはニヤニヤしていたが、少なくとも心配している者は一人もいなかっただろう。
「レディメイドが好きな女の顔に見えた人間、残念ながらオマエは不幸だ。そして、オレは理解した。世の中の男の9割は不幸なんだ。好きな女がいるというのは、感情が報われていないことと同じなんだよ。」
 なんの気まぐれか私はペンを持ち、渡邉の言った不幸が9割を大学ノートに書き出した。それは妙に居心地が良かった。下線すら引いた。
「だがな、それが悪いとはオレは言っていない。むしろ、満足してないからこそ、充足を求めて、人間は何かしら追求する。オレだってそうだ。女、金、名誉、女。飢えているからこそ執拗にヒューマンコードを研究し、レディメイドを生み出した。」
 いつもなら他人のしかも渡邉の共感なんて願下げなのに、この時ばかりは同じ立場であることにシンパシーが生まれ、その印としてまたノートに書く。周りの聴衆も私と同じように渡邉の話に引き込まれているようで、女がダブってることへの揶揄もなく、講堂全体が渡邉の言葉を静かに受け入れている。
「安易に満ち足りたりするなよ馬鹿ども。足るを知るなんて、自分を偽った奴か成功者の贖罪に過ぎない。オマエらの周りにオマエらの求める者を手に入れている人間がいるだろう。だが、そいつは幸せなんかじゃない、ただの不感症だ。なんだかよく分からない人間の擬人だ。不幸なオマエらが正しい。」
 どこからかぱらぱらと拍手が起こる。私は真果と崇のことを思い浮かべた。2人はいつでも私の頭の中で身体を密着しながら楽しそうに何かを話している。内容はついぞ聞こえてこない。恋人たちにしか交わせない会話が延々と繰り返される。何が正しいのか、今の私にはまだわかりそうもない。
「最後に、学長から大学の評判が損なうとの理由で、今学期限りで雇用契約を切られた。オレは今日この場で辞める。別に抗議行動ではない、単純にこれから忙しくなるからだ、以上。」
 渡邉は来たときと同じように教室を出ていった。残された我々ははじめ狐につまれたような沈黙があったのだが、次の瞬間には何事もなかったかのように声と声がぶつかり合い喧騒が生まれた。
 何食わぬ顔して、相変わらず私は崇とつるんでいる。渡邉のことは話題にならなかったし、私も敢えて言うことはなかった。
 崇はいつもと同じ崇なのに、時々崇の態度や言葉に、言葉にならない苛立ちが私の中で生まれてしまうときがあり、そんな時は必死になってそれを打ち消そうと偽りの明るい色で感情を上書きした。真果に対してもそうで、相変わらず動画は毎日のように観て、毎回オナニーし、毎回気分が滅入る。現実の真果は、あの動画のような顔や声を出すことはなく、服もきちんと着ている。そのことに私は内心で理不尽な怒りを精製する。
 真果への義理立てはどこにやらに雲散霧消してしまった。私が監督する自主制作作品に出演してくれている一個下の女の子が私に好意を持っていることには以前からなんとなく気がついていたが、一線を引いていた。監督という立場は時によって人の評価を歪曲しうる。しかし、それはロリコンが児童に対して行うグルーミングと構造は一緒で悪行だ。それに、出演者に手を出したことが他の人間にばれたりしたならば、制作は破綻する。一銭の得にもならない仲間意識や表現に対する熱情がケミストリーとなって成り立っていたところに、バケツで思いっきり冷や水をぶっかけられたように一同は夢から醒めてしまい、一斉に欠けていくことになる。女とヤるために神聖な表現を利用した罪人というレッテルを貼られることになるだろう。もちろん、真果の耳にも入り、友達としての真果も永遠に失うことになってしまう。
 隣で女が背を向けて穏やかな寝息を立てるたびにベッドカバーが微かに上下している。小振りな肩甲骨と背骨の線をじっと見つめた。海の満ち引きをみているようで飽きることはなかったが、かといって、喜びもない。当座の気分はすっきりしていて悪くはなかった。内なる警告は性欲をアジるものでしかなかった。
 朝になると無性に一人になりたかった。悪いとは思うのだが、女に対して酷い態度を取ってしまい、今にも泣きだしそうな顔を浮かべている。それでも、駅までは一緒に帰った。
「また連絡が欲しい。」
別れ間際にそう言われたが、私は返事をすることなく、背を向けてしまった。
何も考えられなかった。行くあてもなく下を向きながらずっと真っ直ぐ歩く。行き止まりになると、左に折れた。突然、道路に小さな黒い斑紋がぱらぱらと出現したと思ったら、空からの雨だった。雨足はあっという間に強くなり、私は目に付いたコーヒーチェーンに避難した。ホットコーヒーを注文し、カウンター席に座りながら、私はスマホでまた懲りずにあの動画を観た。精巣に溜まる精子と同じく、寝て起きると性欲はしっかりと私の体に根付いている。だから、動画を見るのだ。たとえ、事態がどんどん悪い方向に向かっていることを自覚していても、抑えることができない。瘴気が充満するようにSEXがしたくなる。でも、あの女には会いたくなかったし、真果に会えば一層苦しくなるばかりだった。私はスマホで近場の風俗を調べた。

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