テレコテーション01
開店して間もないはずなのに、マクドナルドには既に客が数名いた。
ありがたいことに、いつも使っている席は空いていた。
今日のレジの店員は気の利かない方。
この店員の手首には、毎回絆創膏が貼ってある。
リストカットの跡を隠している。
悪趣味な僕はそう決めつけてしまう。
店員はまだ10代に見える。表情は固く、声もぎこちない。
僕は注文を早く済まそうとして、
店内でコンボのチキンクリスプマフィンとホットコーヒー
と口早に言う。
「店内でしょうか?お持ち帰りでしょうか?」
店員は機械的に繰り返した。
彼女には彼女のペースがある。おまけにマスクをしているので、僕の声は聞き取り辛かったかもしれない。
それでも人間ができてない僕は相手のことをじろっと見てしまう。
目頭に赤いアイライナーを引いている店員の眼は所在なく揺れた。
店内で
「ドリンクはお決まりでしょうか?」
僕はため息の代わりにホットコーヒーと投げやりに伝えた。もうあからさまに不機嫌な態度を出した。
朝食は家で済ませてきたが、ここに来ると、コーヒー以外にも何か口に入れたくなる。
マクドナルドの魔力を垣間見た気がする。
いつもならコーヒーしか頼まない。店にとってはただの迷惑だろうが、僕はマクドナルドに食事をしに来ているわけでもなければ、仕事が始まるまでのシエスタをしに来ているわけでもない。
小説を書きにきている。
しかし、今日は原稿用紙や2Bの鉛筆を取り出す代わりにJBLのノンワイヤレスイヤホンを両耳に装着し、菊地さんの放送に集中する。
前方に座る作業着の老人が、公害じみた大きな音を立て鼻をかむ。
うるせぇなぁ。
僕は口だけを動かした。
このじじぃは朝の常連で、毎回当てつけのようにやかましく鼻をかむ。勢いが凄まじいのでよく鼻の血管を切らないなと思う。むしろ脳の血管が切れて、コントのようにマフィンに顔を埋めたままくたばって欲しい。
いやいや縁起でもない、あんなじいさんでも家族がいるんだ。良心がなだめる。
じゃあ、なにかい?身寄りのない独居老人だったら、糞尿撒き散らしたまま、ハエがたかり、発見した時には、凄まじい悪臭で腹部なんかは半ば溶けていて、形容し難い色の液体が床に這っていてもいいっていうのかい?皮肉屋が揚げ足を取る。
どうせ、みんないつかはくたばる。戦場だろうが、マクドナルドだろうが、死は平等だ。
良心が匙を投げた。
よし、先に進もう。
今回の放送は、特別な回だった。
この回はリスナーからの質問に菊地さんが答えてくれる回で、質問のテーマは、なんでも良いという。
僕ははじめて菊地さんに質問を送った。
「菊地さん、こんばんは。ラジオネームつかさと申します。大恐慌ラジオ毎回楽しく拝聴しています。ありがとうございます。」
何人かのリスナーの質問に回答し終えた後、仕事の合間に作った書き出しを菊地さんが読み始めた。
作業着の老人はいなくなり、その少し先の、出入り口から最も近い席に40代ぐらいの女性が座っていた。時間差で、今度はこの女性の子どもと思われる小学生の女の子がやって来る。この二人は毎朝のようにここで食事をしていた。
女の子は時々、自分のなのか、母親のなのか分からないスマートホンでYouTubeとおぼしき動画を僕の耳にはっきりと届くぐらいの音量で垂れ流している。はっきりいって迷惑行為だが、母親は特に注意することもなく、テーブルの上に冊子を広げ、それなりの真剣さでペンを動かしている。
「ノンジャンルの質問にご回答して頂けるということで、はじめてメールを送らせて頂きました。質問の内容は、文体についてです。おぉー、文筆家菊地成孔に質問ということですね。ドキドキしちゃうなぁ。」
カップに口をつける。コーヒーの質感をなぞるように飲み込むと喉がコクリと音を鳴らした。
体温が不自然に上昇したせいで、身体がむず痒くなるのに堪えながら耳を澄ます。
「私は高校生の頃から将来は小説家になりたいと思いながら、気がつけば35歳を過ぎ、地方公務員として働き、最愛の子と妻を家族に暮らしています。」
最愛は言い過ぎたかもしれない。それに僕が愛しているのは子どもであって、妻にはいつも腹を立ててばかりいる。
「えー、大変結構なことですし、小説家になるのは茨の道、ボクは、小説はようやらんですから。今まで無理くり書かされて、2つ書きましたけど、全然…まぁいいや。」
「でも、文学者志望の人がサクサクいけるってわけないですから。まぁ全然働きながら書き溜めていけばよいかなと思うわけですが。」
「こうしている間に、一時期は文学学校…、おー、そんなのがあるんだ。大学の文学部じゃないよねコレ。文学者になるための専門学校みたいなことでしょ?」
地元の横浜にいたときに仕事終わりや日曜日の午後に通っていた文学学校。あそこは何の学校だったんだろうな。年齢もバラバラの人達が会議室の机を囲んで、あらかじめ決められた1人の作品を他の人が順繰りに評していく。そして最後は先生が総括的な講評を述べた。先生は二人いて、1人はハンセン病の療養所内の生活を描いた作品で芥川賞を受賞した高齢の小説家、もう1人は大学で教鞭を執る文芸評論家だった。
僕も2つばかし出してみたものの、どちらも作品なんて呼べたものじゃない。思いつくまま心象風景を組み立てて、適当なところで完成したと言い張ったようなガラクタだった。
集団の中に身を置くと、どうしても自分と他人を比べてしまう悪癖が僕にはある。自分の不出来な小説だけでなく他人の作品への感想すらも天秤に載せて、勝手に気分が沈んだりしていたので、次第に文学学校から足が遠ざかるようになり、生徒同士の人間関係のいざこざなんかもあって、1年ぐらいで自主退学した。典型的な落ちこぼれである。
名札ぐらいの大きさに赤と白の色でハートを縁取った障がい者マークを鞄につけた老婆が、嗄れた声で独り言を言いながら、僕の前を通り過ぎて、カウンターの前に立った。カウンターから少し距離を取った位置にはスーツ姿の男が1人並んでいた。見た目が好対照な二人だった。呻きのように老婆は注文をまくし立てる。店員は気がついていないのか、気づいているが指摘するのが面倒なので、知らん振りを決め込んでいるのか、無言のまま老婆の接客をしている。スーツ姿の男は、これみよがしなため息をついた。その仕草が鼻についた。
「文学学校に通う等して、小説を書いてはみたものの、自分が納得のできる作品を完成させることはおろか、ここ何年かは作品自体完成させることができていません。ちょっとねぇ、ごめんなさいね、あの質問メールにダメ出しするなんていうことはしませんよ。しませんけども、文学者を目指して質問の内容が文体であると謳っているからこそですが、文体としてちょっと読みづらいと思いますね。」
マスクの下で苦笑する。
この部分は、書いてる時も直そうか迷ったところだった。
でも、『スペインの宇宙食』や菊地さんの日記は、他の作家にはない魅力に溢れてるけど、読みづらいところがありましたよ。大江健三郎や蓮實重彦の文体だってそうじゃないですか。
朝マック母子の女の子が席を立ったときに、一瞬目が合った。顔の表情から親しみの色はなく、むしろ警戒してさえいる。彼女にとって僕は平日の朝よく見かける、顔を宙に彷徨わせてなにやら机に向かって作文をしている、ママよりかは歳下だけど、若くはない挙動のおかしい大人だ。どちらかというと敵意のようなものを向けられてるような気がする。
女の子は、そのままトイレへ入っていった。僕もまた便意を催したが、今行くのはタイミングが悪いようにして、少し我慢することにした。
「いつも着想を得て、書き始めの時は割合と楽しく書けているのですが、途中で段々辛くなり、最後まで書き通すことができないでいます。」
「これは普通のことです。作曲などもそういったことが起こります、はい。他のクリエイト、陶芸、ですとか、絵画、ですとか普通のことですよね。」
「あの、一気にできちゃうこともありますよ。ボクも、あっ浮かんだっつって、ばーっと一気に。あの、わーっと一気にできちゃうこともあるし。もう最初、あっ、この曲作ろうっつって、すげー楽しいっつって、A作って、B作って、さぁどうしようっつって。もう半年ぐらいほっぽらかしにして、半年後にあの続きができたっつって。曲作るとかね。」
「ボクはとにかく小説は書かないので、小説家としての進言は、あなたにはできませんよ。ボクは散文家ではあるけど、主にエッセイスト若しくは音楽理論書、音楽に関する専門書の著者であって、小説というのは今まで、あの、遊びで1コ、無理くり書けっていわれて2コ書きましたけれども、それぐらいの人間だっていうことを、あの、ご認識頂けてますよね?認識してないとしたら、前の質問した方のコヤジドッグさんとおんなじ感じ、っていう。」
「まぁ、しょうがないのよ最近。ボクの全作品通史をね、デビュー作品から全部知ってる方なんてホントに地球上に2、3人しかいないと思いますからね。良いんだけどね。」
最悪だ。しばらく待たされたた挙句、前のヤツがやっと出たトイレに入ったら、今排泄したばかりの大便がぷかぷか水に浮かんでやがる。嫌がらせにも程がある。こみ上げる嫌悪感をなんとか抑えて、僕はすぐさま便器の蛇口を乱暴に引いた。
トイレットペーパーをいつもよりずっと多めにぐるぐると手に巻きつけ、便座を丁寧に拭いた。それでも前の使用者のケツの温もりが残っていて身震いする。
僕は菊地さんに小説家としての助言を求めてはいない。僕は菊地さんの書いた小説『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて』を新宿紀伊國屋で買って読んだけど、それは菊地さんが書いた小説を読んでみたかったからだ。
『スペインの宇宙食』、『東京大学のアルバートアイラー』、『M/D』が僕の本棚にはあって、今も読み返している。
排泄行為が終わり、水を流した後に便器の中をなんとはなしに見ると、便の付着があった。この便は、僕のであろうか、それとも前の流し忘れた不届き者のであろうか。今となっては分からない。もう一遍蛇口を捻ったが、汚れは頑固にしがみつき、流れない。
次にトイレを使う人に不快な思いをさせるのは嫌だった。
僕は傍らに置いてある汚れたトイレブラシを恐る恐る手に取り、便が付いた所を何度か擦った。便の汚れは、さっきの横入りされたサラリーマンのように観念して溜まりに還っていった。
僕はトイレの中では手を洗わない。なぜなら、この洗面所にはペーパータオルがなく、僕はハンカチを持ってきてもいないので、もしここで手を洗ってしまったら、濡れた手でドアノブを掴むことになってしまい、次の使用者に迷惑をかけるからだ。案の定というか、異物投棄者はドアノブを濡らしていた。
僕は極力ドアノブに触れる面積を少なくして、2つの立板が蝶番によって固定し、横にスライドする扉を開けた。出てすぐのところには、向かいの女性トイレと共同で利用するための洗面所があり、ペーパータオルが設置してある。僕はそこで手を洗い、口の周りのマフィンの油を水でゆすいだ。
「続きますね。現在は仕事が始まる前にマクドナルドでコーヒーを飲みながら小説を書いており、今回こそ完成させることを目標に書いています。これは、ダメです。」
菊地さんが朗らかに高笑いする。
「フロイディアンとして申し上げますが、できないことを目標として、一つの目的格を置いて行動して、できることはありません。原理的に。自然にできてしまったということでしか作品は完成をみません。はい。なので、まずは完成させることを目的にマクドナルドにいってコーヒーを飲みに行くことはもう止めてください。」
菊地さんはそう言って、また笑った。
えっ、マジで
もうマクドナルドでコーヒーとチキンクリスプマフィン食っちゃってるよ。
完成させることを目標に小説を書いてはダメなのか。
確かに、そもそも[小説を完成させる]って言葉、なんかおかしいもんな。
なんで受動体なの
小説を書いて、書いて、書いた先に小説の完成がある。能動的な行為の到達点が小説の完成。
うわぁ
でも、オレのしてることって、それだよね。それをしていても[自然に]小説ができない。
菊地さん、フロイディアン的に、小説を自然に完成させるにはどうしたらいいんですか?
「前置きが長くなりましたが、コレ前置きだったのね、菊地さんは文体というものについて、どのようにお考えでしょうか?国内では村上春樹さんや中原昌也さん、海外ではトマス・ピンチョンやミシェル・ウェルベックを愛好しており、これは、海外とはいえピンチョンやウェルベックを原語で読んでいること、ではない…ですよね?まぁ、原語で読んでたら原語で読んでいますと上にコメント流してくださいね。」
当然、翻訳っす。
トマス・ピンチョンやミシェル・ウェルベックなんてとんでもない、気紛れで買った『不思議の国のアリス』ですら理解ができないまま英字を目で追っていた、そんなレベル。
まして翻訳のピンチョンやウェルベックの作品も全部読んでるわけじゃない。
にもかかわらず、ピンチョンやウェルベックの作品は図書館や書店にあるのを見つけると気になってしまう引力みたいなのがある。とくにピンチョンなんかは難解で筋を追うこともできずに途方に暮れながら読んでいたとしても、自分はこの作家の作品を読んでいるといいたい気分にさせる。
もう一つ。中原昌也は映画秘宝だったかなんかの映画評で、アレクセイ・ゲルマン監督作の『神々のたそがれ』を取り上げて、途中で寝たけど面白いと書いている。
これは、そのまま中原昌也の小説やピンチョン、ウェルベックの小説にも当てはまる。つまり、理解がままならなかったとしても、身体的にその面白さ、価値を感じとることができる。
他方で、村上春樹は作家の身体性は後景化している気がして、それは少し寂しい気もするが、その代わり物語の強度が増して、一度読んだら本を閉じることがすこぶる難しい。読んでいるのに飢餓感があるほどだ。
「彼らの文体が放つ、リズムや表現に、すげぇなと羨望を交えながら読んでいます…この羨望を交えながら読んでいます、というのもちょっと伝わりづらいですねぇ。」
ここも表現を悩んだところだ。やはり、背伸びした言葉を使うのは良くない。菊地さんにはすぐに見抜かれてしまう。
7時30分を過ぎたあたりから、ブラインドカーテンの隙間から陽光が差し込み、店内には自然の明るさが満ち始めた。上から下まで人間が活動をするエネルギーの満ちた時間帯。性別の分け隔てなく3、4人の老人がキャッキャッと会話をしている声がイヤホン越しに聴こえる。
「えー、まぁ、あの34歳っていうのは、これからいくらだって、60デビューだっていいじゃないですか。小説家になるのはね。」
菊地さん、僕は毎年今年小説家になりたいと思っています。そして、毎年挫折しているんです。年齢は37です。
「みなさん性急…コヤジドッグさんみたいにね、そんな性急に性急に事に当たってはいけませんよ。落ち着いていきましょう、ゆっくり。人生は長いですから。」
あぁ、僕もコヤジドッグさんと同じ性急であることには違いない。性急だから、漫画の続きが読みたくて夜、友達の家まで自転車を走らせていたら巡回中の警官に止められて、下着泥棒と間違えられてしまった。中学生のときだ。同じクラスの女の子から、髪型をどうして急に坊主にしたのと訊かれて、SEXがしたいからと答えてしまった。これも中学の頃の話だ。
「まぁ、村上春樹さん、中原昌也さん、トマス・ピンチョン、ボクはトマス・ピンチョンを原語で読めるなんて、とてもそんな英語能力ありませんから日本語で読んでます。ミシェル・ウェルベック、素晴らしいですよね。訳者によるけどね。」
「すごいですよね、リズム。おっしゃるとおりです。私自身モダンポリリズムを受講する中で、もしポリリズムを文体で表現できたらヤベェことになると思考錯誤を重ねていますが、未だに答えは出ていません。」
モダンポリリズムは、菊地さんの音楽講義コンテンツ動画の一つである。講義コンテンツの中では恐らく最もポピュラーなものだ。僕は何回も挫折した末に、この前ようやく全講義の半分を聴き終えた。
「んーー、これは困ったなぁ。文筆家として、音楽家としてなんか両サイドから詰められた感じですね。」
講義を聴いた成果が、こんな妄想ですんません。
「ポリリズムが文体に表現できたらいいよね。なんか妄想としては非常に楽しいですよね。んーー、どうなんだろうなーー。」
ドリンクカップを傾けても中身が出てこない。コーヒーは既に底をついていた。Sサイズだと物足りないし、Mサイズだと無理をして飲むことになる。SMサイズがあればいい。字面で興奮する輩が出てくるかもしれない。店内が新たな変態のハッテン場になるやも。昔お女優がマックのような制服を着たAVを観た気がする。
あゝ、この脈絡のなさは、緊張している兆候だ。僕は公務員試験の本番中、美空ひばりの『愛燦燦』が延々と流れ続けていた。
「考えこんじゃった、失礼。もし独特の文体の獲得ができれば、今より書くことが楽しくなり、書くことのできる幅も拡がるのではないかと期待してます。まとまりのない意見で恐縮ですが、ご意見賜れれば幸いです。」
「んー、趣味は悪くないよね。村上春樹さん、中原昌也さんはすごい文体持ちですよね。トマス・ピンチョンやミシェル・ウェルベックも日本語で読んだってすごい文体持ちですからね、はい。」
「えー、なにが言いたいのかなぁ。文学者になりたい…あっ、違うわ。菊地さんは文体についてどう思いますかってことね、はいはいはいはい。」
「ボクは物書きですから、文体については意識してますよ。えーと、文体という言葉を音楽に拡大解釈すればですね、作曲ですとか、アドリブもあれは一つの文体ですから、それはもちろん意識的にコントロールしたり、できなかったりを繰り返していますね。」
「音楽は即時性が非常に高い、特に即興演奏はね。だけど、作曲はやり直しがきくし、文章も書き直しが効きますね。」
ニコニコ動画の画面上には菊地さんが発したことに対して匿名のコメントが流れている。この時にもコメントが流れた。
[この人は小説を書きたいんじゃなくて、カッコいい文章書いてチヤホヤされたいだけな気がする]
そうだよ。
だけどな、小説家の恐らくほとんど全員が読者にチヤホヤされたくて小説を書いてんだよ。
もし、純粋に小説を書くことができたら…いいよなぁ。
打算で小説を書いてるような人間は、やはりダメか…。
周りから賞賛してもらう術が、小説を書くこと以外に、僕にはない。
スポーツをしててもパッとしない、楽器を始めても芽が出ない。
自分の中の可能性を見渡したところ、小説があった。なにより、僕は小説家があらゆる職業で最も尊いと思っている。
図書館が存在する限り、この考えが揺らぐことはない。
太陽が昇るにつれ、外からの陽光はますます明るくなる。早くここから出るよう急き立てている気さえする。
長い時間座っているせいで、脚の血の巡りが悪くなり、先端が冷え出した。
店も長く居座る客に対しては容赦がない。エアコンを使い、長時間の滞在をしないよう人工的に過酷な環境にしてくる。
しかし、僕はネットのそこかしこに浮遊しているような文句は言わない。マクドナルドは元来長く滞在する仕様にはなっていないのだから耐えるしかない。もし、それが嫌ならルノアールに河岸を変えるべきだ。フィレオフィッシュセットを頼んでも尚、ルノアールのコーヒー一杯の金額に達しない。それが現実だ。
「ですけど、文体っていうのは結局あなたの文学経験の蓄積の結果です。まず第一には、第一にはね。だから、かぶれるっていうか、村上春樹好きな人が、村上春樹みたいな文体になるっていうのが初動、幼年期じゃないですか。」
村上春樹の処女作の『風の歌を聴け』をノートに書き写し、ボイスレコーダーに録音した音読をiPodに入れて聴いたが、どうやらそれは無駄だった。無駄は無駄だと思ってしまうことによって起こる。
「うーん、なんだけど、どうなんだろうなぁ。あの、文体がない、自分なりの文体っていうのを確立してないから小説が書けないと思っているとしたら、それは誤解です誤解。間違いです間違いよ。うん。文体のあるなしによって小説が書ける書けないが決定するんじゃないんですよ。文体はもちろん小説を書く上でのライティングエンジン、ライティングエナジーではあります。っていうか、ライティングウェイっていった方がいいのかな。」
「ですけども、小説っていうのはどんなに前衛的なものであろうと物語ですから。あなたが空想の突っかかりまではつくんだけど、その物語をどうやって折りたたんで回収させられるかっていう能力が欠如しているってことですよね。この質問はね、これはこの方だけじゃなくて若いクリエイターの方でこういう方たくさんいらっしゃると思うんですよ。」
小説を書いている時に、毎回魔の瞬間が訪れる。
これは果たして小説と呼べるのだろうか。小説と呼ぶにはあまりに稚拙に過ぎないか。
誰かが頭の中で執拗に囁く。
僕しかいない。
でも、小説は他ならぬ僕が書いたものだ。それなりの時間と労力を使い、僕なりの世界を組み立てたはずだった。
しかし、僕を否定する僕を肯定することにずっと模索している。
冬の日の夜の暗い雨のようにじっとりと身体に染みついた。
店内放送はBGMから週替わりのアーティストがパーソナリティとなってマクドナルドに因んだ話をするラジオ的コーナーに切り替わる。
この日のパーソナリティは男の声優で歌手としても活動しているらしい。自分の出演作のプロパガンダに躍起になってる印象を受ける。
[とにかくピカチュウみたいに、みんなを笑顔にしてあげたいんですよ。]
店内から流れる爽やかな美声は、僕の顔を曇らせる。ただ、これはこの人のせいではない。この短い時間にマクドナルドにもタイアップした映画にも目配りをしなくてはならない中で、座付きの作家があれやこれや頭を捻り、会話の一言一言に商品コードを配置していて、この人はこの人なりに力を尽くしてその台本を読み上げている。悪者はこの場にいない。
だけど、僕はこの放送が掻き消されるようにイヤホンの音量を限界まで上げた。
「パッと思いついて、おっこんなのやってみようと思った。やったら途中から収拾つかなくなって結局まとまりませんでした、っていうのね。これって別に普通に大学に出される論文だって起こることだし、恋人に出すラブレターとかにだって起こるんじゃないの。」
僕は形にこだわり過ぎているのかもしれない。文学の蓄積が仮想君子ヅラをして僕の書いたものにダメ出しをする。
収拾なんてつけなくても良いのかもしれない。
南へ南へ、上を見上げながら空を歩く。人や電柱にぶつかろうが構わず進む。犬の糞を靴底が掴んだとしても知ったものか。やがて潮の匂いが鼻をかすめ、血が昇りくらくらしながら視線を前に移すと、色合いが境になった臨海が拓けた。
あぁ、小説は陸地ではなく海原で起こる。
陸地と海の緩衝帯であるところの砂浜で、振り返ることはせずに活き活きとした飛沫が仰ぐ前面に当たりながら、進んでいく。
苦しいのは、はじめだけ。やがて慣れると自分を信じながら、海面でもがく。
僕はイヤホンを外した。博愛主義めいた放送は終わり、ノイズキャンセリング代わりの音楽に放送は切り替わる。
荷物はそのままに、スマホを持って外に出た。柵の向こうの車道は、大型のトラックが威圧感を撒き散らしながら走っている。
どこもかしこも形は違えど騒音ばかりだ。
僕は、1時間遅れると職場に電話をした。
そして、またマクドナルドに戻った。要領の悪い店員が僕をチラッと見た。僕が見つめ返すと彼女はすぐに目を逸らした。僕は何事もなく席に戻り、イヤホンを耳に挿した。
「うん、そしてそのことはとても幼年期に起こることですよ。あの、最後まで、結びの一文字まで、最後の一音まで想定しているとは、とても言えませんよボクも。なんだけど、まぁ9割までは想像することですよ。まず書き始めてしまうより。まず、想像すること。妄想すること。イマジネーションして、メモ書きとかはいいよ、メモ書きはいいけど、そうやって作品自体を書き始めるのをちょっと待って…性急です、あなたは。コヤジドッグさんと同じで。」
コップの淵から溢れたように菊地さんは笑う。僕もつられて笑う。
想像力の持続の欠如
性急
僕は小説家に向いてないのかもしれない。
あまりに人間が単純にできている。
熱しやすく冷めやすい、影響を受けやすく飽きやすい。
自分に欠けた部分を求めて小説を書いている気さえする。そして、毎回これは形が違うと言ってゴミ箱に放り投げている。
それでも現実の時間は、刻一刻と進み続け、僕は毎秒歳を取っていく。
しばらくすると、また夢遊病患者のように小説を書き始める。そしてまた軽く絶望する。毎秒歳を取る。それを順繰りと繰り返す。やがて死ぬ。
気分を変えよう。
席から立ち上がり、カウンターの列に並ぶ。
店員は僕の顔をまたチラッと見る。
ホットコーヒーのS
と言う。
店員が少し笑った気がした。僕は少し気恥ずかしくなり、店員の胸元に視線を下げた。別に店員のおっぱいが気になるわけではない。ただ向こうは自分のおっぱいが見られていると感じるだろうか。
僕はもう一度顔を上げたが、目の前の店員の顔も見たくはなかったので、意図的に視覚の焦点をぼかした。
これは、顔見知り程度の間柄で話しかけるのが億劫なタイプの人間と外で出くわしたときに発動する。
地元の横浜では、腐れ縁である友達と親交のある[横山]や[中村]の存在をよく曖昧にしていた。彼らからしてみれば、あまりいい気分はしなかったかもしれないし、あるいはあっちも同じことを僕にしていたかもしれない。
とにかく、僕は新しい温かいコーヒーを手に席に戻った。
「性急なんで落ち着いて妄想がこうなってこうなってこうなって、こういうことが起こって、こうなってこうなって、これでこういう風な結末になって、こうなる。まぁ、七分ぐらいまで考えたら書き始めましょうよ。」
新しくて温かいコーヒーを口に含む。
新しいので熱いコーヒーの吸飲配分を間違えたために、僕の口内からびん乱者と見なされた黒い液体は、味もへちまもなく、舌によって撹拌され、熱を冷まされた後は強制退去の体で食道へと送られる。
妄想の深度が不足している。僕はまだ物語の陸地を歩いている。それはこの現実と地続きで繋がっているから足場もしっかりしていて歩きやすい。
しかし、もう一人のどこかの僕は陸に留まることを否定する。
もしかしたら、書いている性急な僕こそが、実は仮そめの僕で、僕を否定する僕こそが、純粋に文学者を志している僕、なのかもしれない。
沈黙の伴奏の上で、旋律を鳴らす菊地さんの言葉は、そんな風に教えてくれてる気がする。
「したら書いてる内にあとの三分は自動的に出てくるかもしれないし、やっぱ七合目で止まってしまうかもね。でも、いずれにせよ、このメールの文体、として書いている内容から伝わってくるのは性急さですね。パッと思いついたら、すぐ書き始めちゃう。それでなかなかなれないなれないなれないっつって。とにかく最後まで書くことを目標にするんだってコレ1番うまくいかない人のパターンなんで。わたしがお預けができないんで我慢しきれず聴きますが、つってゴルゴ13の最終回について僕に聞いたって分かるわけないじゃん。」
あちゃぁー、ゴルゴ13の最終回を聞く人と同じか。
でも、菊地さん。肩を持つわけではないけど、このコヤジドッグさんだって本当に菊地さんがゴルゴ13の最終回を教えてくれると思って、投稿をしている訳ではなくて、あくまで菊地さんと交信する道具の一つとしてゴルゴ13の最終回を使っているんだと思いますよ。
でも、そんなことは菊地さんも分かっているのか。分かった上で、弄んでいるのか。悪りぃなぁ。
断続的に痰を切る音がする。さっきの鼻を噛む音に負けないぐらい耳障りだった。
僕は音の発生源を辿ろうとしたが、座席を仕切る衝立が邪魔をしていて特定ができない。
痰がきれない気分の悪さは分かる。風邪を引いたときの喉の痛みと共に現れる、あの胸糞の悪い色をしたゲル状の物体を、吐き出した経験は僕にもある。
しかし、ファーストフードとはいえ飲食をしている客もいる中で執拗に繰り返される場所を弁えないゲスな行為に腹が立つ。僕は左手の中指を突き出して高らかに掲げた。
「まぁ、とにかくね。あなたに才能があるのかどうかなんてボクはそんな、ボク自身が文学者じゃないからね別に。あんなかったるい仕事できないよ。」
才能、才能、才能。
小説を書くのに必要な才能は何なんだ。また、その才能はどうしたら得られる?
もし、金で買えるなら…いや才能をお金で買える発想が既に才能がない。しかも賤しくさもしい。
もし半端に才能があったら、とっくに見切りをつけて小説を書くのは諦められたかもしれない。
かったるい仕事、ごもっとも。
書いてる自分自身が、どうしてこんな途方もない作業をしているのかと自問してしまう。知らない街道をた地図なしで延々歩いているような不安な気分になる。
小説家志望の書いた小説ほど、非生産的な行為はないかもしれない。何も生み出さず、苦悩ばかりが残る。
喉がスムースになったのか、僕の無言の抗議が伝わったのか分からないが、あの不快な痰を切る音は止み、平和な洋楽が戻ってきた。左腕は、ずっと同じ体勢のまま固まっていたので、気怠い疲労があった。
「中原昌也くんは、今日もさっき映画の仕事で一緒にいたの、ついさっきまで。彼は本物の文学者の一人だと思いますね。それは、もお生活だとか全てに文学があんだよね。で、あの人の頭の中にある物語構築っていうのは、本当に物凄くて。まぁ、ボクが本気ですごい国文学者っていうのは、いま本当にガチで金原ひとみさんと中原昌也さんだけですね。あとの小説家は、何ていうのかなぁ、まぁ読んでないからダメとかいうのも失礼ですけど、読む気も起こんないです、そもそも。」
生活に文学がある。俳優が演じる役の人物として普段から生きることで、自然に役を演じられるのと似ている。
地方公務員で所帯を持った僕の生活と文学濃度は、限りなく0に近い。かと言って今更フラット35の住宅ローンで買った戸建をかなぐり捨て、中原昌也が住んでいると言われている新宿ゴールデン街に居を移したとして、誰もそれが文学だとは言ってはくれない。無謀なだけだし、子供を育てるのにも不向きだ。
菊地さんは事ある毎に中原昌也と金原ひとみの作家の名前を口にしている。そして、それ以外の小説家の作品は読んでいないと語る。
しかし、これはおそらく多分作品を通しで読んでいるのは、という()がつくだろう。
僕は以前、菊地さんが日記で村田沙耶香の短編に触れていたことを根拠に、別の日記で今回のようなことを書いていたので、村田沙耶香さんは、どうですか?とコメントを送ったことがある。
今振り返ってみれば、それが菊地さんとの非対面交信の始まりだったわけだが、菊地さんは、村田沙耶香さんの作品も読んでいると答えてくれた。菊地さんが返信してくれたことがなにより嬉しかった。
まぁ、だから何なんだってことではあるのだが…
僕が前を向くと1人の若い女性が座っていた。小説を書いてる時にふと顔をあげると彼女の横顔が目に入る。僕とその人の座席配列から垂直の向きになる。垂直女性だ。
ショートボブのヘアスタイルをしたとりわけ美人でもなく不細工でもなく、形容としてはフラットな顔立ちの垂直女性は、毎回コーヒーを飲んでる。僕と同じく。
僕は小説の展開や言葉を探しているときに無意識に彼女の横顔を眺めている。
垂直女性は、僕に見られていることを意識しているだろう。その意識が僕に伝わってきてくるから、僕は垂直女性を結果的に見つめていたことに気がつき、目を逸らす。
まるでニーチェのようだが、だからといって言葉を交わすことはない。このマクドナルドに着くまでに僕は家からバスに乗るのだが、垂直女性が一緒に降りてきたことがあって、びっくりした。
話しかけるタイミングとしては、その時が最適だったのかもしれない。しかし、僕は話しかけることはせずに、車道が大部分を占領する道路の端を縦列に一定の距離を取って一路、マクドナルドを目指したのだ。
こんな僕の情けなさに文学が宿るわけもなく。
「えー、だからそうだな、まずは読書したり人生経験とかね、ゴダールみたいにまず映画撮りたかったら、あの、カメラ持って自分の1日を撮影しろって自然主義みたいな進め方もあるから。まずは日記をつけることでもいいんじゃないんですか。こういうことがあった、こういうことがあったみたいな。でも物語を書きたくなっちゃうんだよね。妄想の世界、日記じゃ嫌なんだよ。」
友達から貰ったジョージ・オーウェルの1984を扮したリングノートが、ビニールカバーを被ったまま家に置いてあったな。
日記を書くなら鉛筆がいい。鉛筆削りが合体しているキャップは、文房具店にはなかなかなくて、100円ショップに売ってたりする。鉛筆削りキャップは文房具として邪道なんだろうか。なかなか便利なような気がするけど。
僕には小説が完成するあてがない。
でも、このまま何も書かずに死んでいくのは嫌だ。
ある作家が言った。文章を書くことは呼吸をすることと等しい。
僕は違う。僕の文章は始めから呼吸困難を起こしているように苦しい。でも、それは僕が自分で自分の首を絞めているからだ。ただ誰かによほど恨まれてない限り、もしくはいささか逸した性的興奮をSEXで得ようとする人でない限り、自分の首は大概自分で絞めている。
呼吸とは言えないまでも、歩くことと同じくらいありふれた行動といえば妄想をすることだ。でも、物語の妄想は、文章を書くことと等しく苦しい。簡単なのは金とエロスである。
だからこそ、たまにそれ以外の、物語にピースになりうるような妄想が生まれたときには、嬉しくて、菊地さんの言うように性急に書きたくなってしまう。
だけど、妄想の欠片は欠けていて、創造でそれを埋めようとしてもうまくいかない。創造のピースと妄想のピースは噛み合わずに、そのうち元々の妄想のピースに亀裂が入り、それはある地点で瓦解する。たまらず僕は現実の社会に逃げていく。ピース。
陽射しを遮るためのブラインドから、木漏れ日が差し、テーブルの上には陽だまりがぽっかりと浮かび、手を翳すとほのかに温かい。
僕と朝を共有した客の姿は一人として無かった。店員の態度は相変わらずであるし、フライヤーのピコピコ音はオーダーの度に鳴り響く。いけすかない店内放送は、間延びしたメトロノームのようにある一定の時間毎に繰り返される。
しかし、店の空気は刻一刻と変化していく。僕以外の客はそのことには気がついてはいないが、無意識のうちに店を出て行く。潮目が変わったことに僕は気がついていたが、そのまま居残っている。なんとなしに後ろめたい。
「だけど文体修行ってことでいえば、日記書くのいいと思いますけどね。コレ文体の話で良かったです。この方が作曲家になりたくて作曲がうまくいかないって話になったら、ボク、スイッチ入っちゃうんで、3時間半コースになってしまう。ファハハハハハハ。記録が更新されちゃうんだよね。はい。えーと、とにかくボクは文学者として文学者志望の方に提言できることはなにもないので、文学者の方に聞いてみたらいかがですか?」
「今ボクが答えた回答は一般的な行動心理学とあの、あとは音楽作曲を、文学作品を一編書き上げるということのメタファーとしてお答えしたという、ボクが回答できる上限の回答をしただけで芯は食っていないと思います。はい、次です。ありがとうございました。」
左右に分かれた廃棄ボックスのカウンターは、コーヒーカップとプラスチックをそれぞれ飲み込んだ。この時のシーソーのようなリズムが子どもの頃から僕は好きだ。
出入口の扉は、外気を吸い込んだように重く、力を入れて押し出すと、風がひゅうっと音を立てる。
歩く道すがら僕の質問に対しての菊地さんが回答してくれたことを頭の中で反芻していたら、少し前の方でスナックで働いてそうな風体のお婆さんが小型犬を散歩していた。小型犬は、倒立のような姿勢で、後ろ足を外壁につけてバタバタさせていた。よくよく見ると、ケツからうんちを撒き散らしている。
うわぁ、汚ねぇ。
と僕は思った。
飼い主のお婆さんは、その場に立ち止まりスマホに夢中になっている。
派手な放糞を終えた犬は、尚も執拗に外壁を蹴っている。スマホの作業を終えた飼い主はようやく飼い犬の方を向いた。
「あんた、何してるの?」
お婆さんがそう言った途端、小型犬は壁を蹴るのを止めて両足を地面に下ろした。お婆さんは次に犬の周りに糞が飛び散ってるのにも気づいた。
「これ、あんたがやったの?」
「くぅーん。」
と犬が鳴く。
相対している1人の老婆と一匹の非常識な小型犬のよこを一部始終見ていながら、僕は何事もなく通り過ぎる。ただ、飼い主が路上に散らばった糞を片づけるか放置したまま去っていくのかが気になり、振り返りろうかどうか迷ったが、止めた。
とりあえず菊地さん、そしてゴダールの言ったことに従い、今日は仕事が終わり、家に帰る途中の、コーヒーとテーブルを提供してくれる所でこのことを記し、翌日それを新しいノートに書き写して日記というものを始めてみよう。
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