◯◯の絵に似てるね、と言われること。

◯◯の絵に似てるね、と言われること。

絵を描いていて、タイトルと同じような感想を言われた事のある作家はわりといると思う。

似てると感じただけでその絵を観ることを拒絶する鑑賞者もいるし、拒絶はなくともどう観ていいものか困惑する人もいる。

私も以前は自分にとって嘘の表現でもないし意識した訳でもないのに、描いた絵が何かと一見(一目見た限り)似たものになってしまった時、その絵を自分の絵ではないと拒絶していた。

"似る=駄目なもの"

それは作家をやる上で当たり前の事だと思い込んで、その理由については考えたこともなかった。

だけど何度も起きてしまう現象に、なぜなのかと問い続けた結果、なんとなく自分にとって腑に落ちる答えに辿り着き、それからはあまり気にならなくなった。(全くとはまだ言い切れないところはあるけど)
それを今回書こうと思う。

分かりやすく自分の絵で一つ例を出すと(本当は作品をこんな事に使いたくないけど...)、前の個展『リトル・ヴォイス』の展示作品で、丸山直文さんの作品に一見似てるものがあった。

画像2

でも並べてちゃんと見比べると、描き技法から画材まで全く違うのが分かると思う。(私の作品は上の絵なので見比べたい人は調べてください。)

共通事項があるとしたら、

①セピア調の色
②舟に乗ってる人


この2項目だけ。

①セピア調の絵は、モノクロ調やパステルカラー調と同じく特別珍しいものではない。

②は過去現在多くの作家によって大変よく描かれているモチーフ。


このありふれたもの2つが入っただけで、丸山さんの(安易な真似という意味で)パクリだねともし言う人がいたなら、失礼ながら薄っぺらい目で絵を見てる人だと感じてしまう。
もしそれが正しい見方、評価なのだとしたら、オリジナルの絵なんてもうほとんどの作家が描けないのではないだろうか。


まず、①の色の問題について。

現在の作家の扱う色において、オリジナルカラーだとかなんとか、そんな大それたワードはすごく烏滸がましく感じる。
何を選択するか、もしくはできないかという事だけだと個人的には感じる。(先天的、または後天的な体質・性質による色の見え方が作品表現に繋がる話、画材メーカーのように色の開発自体をしているなどの話はまた別として)

色はコンセプトや意味やイメージなどに合わせてコントロールしていくものだと自分は考える。

②のモチーフの問題について。

作家の描くモチーフがかぶることはよくある。
人とか花とか馬とか天使とか、描き出すとキリがないくらいに。
様々な考えがあるけど、自分はモチーフを記号のようなものだと考えている。

優しい記号で出てくるイメージは、
花や動物や穏やかな景色

不安の記号で出てくるイメージは、
海や舟や荒れた天気

この◯◯の記号ででてくるイメージは、他人と比べた時、全部一致することはないけどある程度重なる範囲がある。

それは言葉と同じこと。(言葉の方がより顕著だ。)

優しい言葉を想像した時、おおよその人が
ありがとう、好き、まろやか、あたたかい
のようなワードが脳内の【優しい言葉フォルダ】に入っていると思う。(勿論差はあるけど、言語によって周りと意思疎通、情報共有できてる人なら少なくとも8割ぐらいはズレない)


言葉とは模倣の連続(模倣のコラージュ)だと自分は思っている。

誰かの造語が、じわじわと広まり世界中の人によって使われていること。それは豊かだからこそ起こること。むしろそれが豊かにしていることもある。(支配の面もあるが今は割愛する)

ではこの模倣のコラージュの中でどこでオリジナル性が生じるかというと、言葉の内側、どういう経験や意味を持って、そのありふれた言葉を提示しているかだと考える。
要はコンセプト。


それは絵も同じじゃないかと思う。
現在において様々なイメージがうるさいほど世の中に溢れていて、言葉と同じぐらい、人の作ったイメージを毎日自然に(強制的に)吸収してしまう時代。
だからそれらイメージの大群を脳内で無意識に(又は意識的に)コラージュして新たなものを作っているのが現在における作品の一つの特徴であると感じる。(音楽のリミックスや映画や漫画のパロディ然り)
その作り方に絵だけは該当しないという考えは極めて不自然だ。

また、自分の独創性だと思ってたものが、Instagramや Pinterestで偶々似たイメージに遭遇してしまう事も今の時代は珍しくない。
そういう世界になってきているから絵の表面上が一見似てるようになってしまうのは自然の流れではないだろうか。
(もし流れに逆らうならもう他人のイメージに一切触れることがない環境でやるしかない。)

表現方法として、その自然に抗う人がいるのも勿論否定しないけど、受け入れる人に対してもどうか拒絶しないでほしいと思う。


長くなってしまって、文章も整っておらず読みづらさの極みで、伝わってるかどうかわからないけど、始めに繋げると、
自分の絵において、表面が何かに "似る" のはもう自然な事として受け止めているので、間違っても安易に "真似" をしてる作家だなとは思わないでほしい。
『リトル・ヴォイス』では作品を制作する際に考えている軸(ステートメント)も展示していたのだけど、それを見て、私の絵の中の記号の意味、イメージの内側を知っていただけたらとても嬉しい。

画像2

(上の画像は個展で展示していた文章の一部。)


絵は言葉そのものではないので、全部を言語で説明できるわけではない。
制作する上で、自分のイメージに対し絵が先行する時もあれば言葉が先行する時もある。
まだ自分でもなぜこの絵を描くのか、分からないものもある。
その無数に散らばった点を一つ一つ結んだり、解いたりしながら、自分自身や世界の大事なことを勝手に気づいた気になって、人からみたら何の価値もないような、どう評価していいかわからない達成感を味わうのが自分にとっては長い作家人生の醍醐味なので、このおもちゃとは飽きるまであそびたいと思う。


人間、生物とか植物も勿論だけど、今意識できている概念もいずれ朽ちていき、忘れ去られる時があると思う。今までもあったと思う。
例えがうまく出てこないけど、人間がかつてあった(かもしれない)第六感とか第七感とかもそういうもので。
いずれ唯一無二といえるようなことも飽和して無くなるんじゃないかななど最近は想像している。


自分らしい、あなたらしい、色や形やモチーフはあるけど(しかもそれは変化する)、
自分だけの、あなただけの色や形やモチーフはないと思う。
その考えは傲慢さすら感じる。

すべては借りものだし、仮のもので、それが世界を構築している要素の一つであると感じる。

人って実は唯一無二の個性とかなくて、皆んなが共有しているもの(存在)の組み合わせをただ変えることで様々な個性が作られてるだけ(バリエーションがあるだけ)なんだろうなと思う。

神様みたいな人なんていないのだ。


以上、タイトルの言葉に対する個人的見解でした。
誰かにこの考えを押し付ける気もなければ、否定を受けとめる気もさらさらない。
誰の為でもなく(勿論誰かの考えを否定する為でもなく)、
ただ自分の為だけに、つらつら書いてみた。

誰かの強い言葉によって思考停止してるもの、世の中には意外と沢山あるから、表現者として注意深くあらねばと思う。

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