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スーパースター空海

出世なんか退屈だ!ひとりぼっちの自分革命が世界に革命を起こすのです。引き返すことのできない世界に追い込むことでスタートする、宗教とは感動すること、共鳴すること!いま政治家にかけているのは口先の美辞麗句ではなく魂の感動です。
空海が乗り込んだ宇宙船地球号が宇宙を行く


宇宙のパワー


遺伝子を残したい

曼荼羅の仏と仏縁を結ぶ密教の儀式「結縁灌頂」により、空海は「遍照金剛」という名とともに、仏舎利、曼荼羅などを与えられた。

当時病を患っていた恵果は、中国での密教の行く末を危惧していたことから、日本に伝えることでその遺伝子を残そうとしたのだった。すべての経典を伝授して恵果は息を引き取り、空海は20年の留学義務を切り上げ、遭難した第4船に乗船していて生還し、帰国の途についたのです。

806年10月、空海は無事、博多津に帰着。空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰国後は入京の許しを待って数年間大宰府に滞京の許しが出ず、3年間大宰府で足止めされます。

807年~809年の2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています。この時期、空海は個人の法要を引き受け、その法要のため密教図像の制作などをしていたとありますが、はたして我が道を征く空海の実際は不明です。

九州を離れた空海は、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺にはいります。
槇尾山寺は798年(延暦17)に奈良大安寺の高僧勤操により空海が沙弥戒をうけた場所でした。
その時と変わらず当時も槇尾山寺は勤操が管理していました。

沙弥戒
不殺生(生き物を殺さない)
不偷盜(盗みをしない)
不淫欲(淫欲に耽らない)
不妄語(うそを言わない)
不飲酒(酒を飲まない)
不花髻瓔珞香油塗身(装身具や香を付けない)
不歌舞作唱故往観聴(歌や踊りを見聞しない)
不坐臥高広大床(広く高い寝台に寝ない)
不非時食(正午以後食事しない)
不捉金銀銭宝(金銀財宝を蓄えない)

若き日の空海を伴い和泉の槙尾山に赴いて、出家させた剃髪の師といわれ、また虚空蔵菩薩求聞持法を授けた人物と言われてきました。
さらには空海が入唐することができたのも、勤操の力によるところが大きかったと言われます。 天長四年(827年)勤操大徳は西寺北院で遷化され、僧正位を追贈されました。
(入唐留学僧であった「戒明」の説もありますが、請来した仏典の中で偽経とされるものがあったことから筑紫の国師として大安寺を離れる。)

空海にとって勤操大徳及び戒明はその生涯において大きな影響をあたえた人たちだったといえましょう。

最澄VS.奈良仏教

当時の仏教界の状況は、朝廷の厚い信頼を得ている最澄と奈良の仏教勢力は敵対関係にありました。
最澄に押されっぱなしで、旧仏教という位置まで貶められていた奈良勢力にしてみれば、私度僧の頃から勤操と縁の深い空海が、最澄以上に斬新な体系である正統密教の正嫡として帰国したことは、小躍りするほど嬉しい出来事であったのかもしれません。

最澄の天台宗が桓武天皇の意向を汲んで奈良勢力を全否定していることに比べて、空海の密教は包容力があるため奈良六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗 ・律宗)と正面からぶつかることがなかったことも幸いだったのではないかといわれています。

槇尾山寺に入った空海は、唐から持ち帰った経典等を整理しつつ、金剛頂経系密教(金剛界)と大日経系密教(胎蔵界)の二つの密教思想を一つの体系に創り上げる(「両部不二」)という教義を発展させる作業をするのには格好の場所になったことでしょう。

一足先に唐より帰国していた最澄から報告をうけていた桓武天皇が延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御され政局が不安定になります。第一子である皇太子安殿親王(平城天皇)のが即位されると、同年、平城天皇は病気のため同母弟の皇太弟神野親王(嵯峨天皇)に譲位したのち平城京に移った。

このため平安京(経)と平城京(奈良)に朝廷が並立するようになり、藤原薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になります。

また先に帰国していた最澄が密教を伝えていたことで、朝廷は両者の関係をどう扱うか結論が出ておらず許可が遅れたようです。空海は、外交・海防の役所が太宰府近くの観世音寺にしばらく滞在していました。


入京の許しが出たのは809年7月のことです。入京の許可には最澄の尽力が大きく影響しました。最澄は空海の「御請来目録』を目にして、自身が唐から伝えた密教経典には不備の多いことがわかり、空海に正統密教の経典借用を頼んだのです。この交流をきっかけに最澄は朝廷に対して空海の入京を強く働きかけたようです。

転機到来

ようやく京に入ることができた空海は、風光明媚な清滝川の渓谷を望み、高雄山の中腹に大伽藍をいただく神護寺の住職を任じられました。。ここは最澄と関係の深い和気清麻呂(わけのきよまろ)の菩提寺です。最澄は経典借用の謝礼として空海を紹介したようです。
清麻呂は奈良時代末期から平安時代にかけて朝廷に仕えた官僚で、宇佐八幡神託事件で道鏡を失脚させた人物でした。
嵯峨天皇が即位したのは同年四月、政治がようやく落ち着こうとしていました。

スーパースター空海誕生

空海は天皇に鎮護国家の修法を申し出て許されます、
その年の暮れから翌810年正月にかけて行ないました。
また空海は、811年11月と12月に最澄とその弟子たちに胎蔵・金剛界両部の結縁湛頂を授けました。これは「学法湛頂」ともいい、密教を学ぶ学僧に仏縁を結ばせる儀式です。これにより最澄は空海の弟子になったわけです。日本仏教界の第一人者である最澄を弟子にした空海の名は一気に世にひろまりました。

両界曼荼羅



最澄はさらに、阿閤梨になるための伝法濯頂を授かりたいと申し出ますが、それには少なくとも三年の修行が必要だとして断りました。最澄には本拠地である比叡山を長期間離れる時間がなく断念しました。その後、最澄と空海は重要な密教経典の貸借をめぐる問題などから徐々に疎遠になっていきます。

空海がわずか数年間で日本仏教界のスーパースターになり得たのは、嵯峨天皇(在位809年〜842)が空海に帰依したことが大きく働きました。
嵯峨天皇・橘逸勢・空海が「日本三筆」と呼ばれていることからもわかるように、嵯峨天皇は書や詩歌など文芸の教養が高く、なかでも書において秀でていました。

809年秋、神護寺に入寺した空海は、嵯峨天皇の命により「世説新語』の一文を扉風に書いて献上しました。『世説新語』とは、中国南北朝時代の皇族・劉義慶(りゆうぎけい)が編纂した、後漢から東晋の時代に活躍した著名人の逸話を集めた小説集です。それを喜んだ天皇は、文芸の才能に富んだ空海にどんどん惹かれていったのでしょう。空海も嵯峨天皇の御世(みよ)が平安であるよう、その年の暮れから翌年正月にかけて鎮護国家の修法を行なったことで嵯峨天皇の信頼はさらに深まりました。やがて両者の関係は「高野山」へと繋がります。

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