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宗派と総本山 (中)

 総本山の権限をめぐる紛争が解決され、昭和40年2月の臨時宗会で宗会議員の顔合わせが行われた真言宗東寺派。次の宗会を3月30日開催と決定し、宗派は本末和合して新たな一歩を進む…、ハズだった。

 昭和40年3月16日深夜、湯口英巌の所属する真言宗東寺派神奈川支所に朝日新聞京都支局から電話がかかって来た。突然だったが、その内容も「誠に寝耳に水とは此の事」だったという。
 内容は、総本山である教王護国寺が2月27日に京都府に対して東寺派からの離脱申請を提出し、3月16日の今日、受理されたというものだった。
 「激しい憤りと足元がくずれ目の前が真暗になる様な感じに、翌朝迄一睡も出来なかった」と関係者は『高野山時報』に寄稿している。

 宗派の総本山が、その宗派から独立する。この前代未聞の事態に宗内は大騒動となった。
 翌日には神奈川支所の関係者が集結、事態を憂慮してすぐに京都府宗教法人課係へと電話した。離脱認証を延期するよう求め、宗内事情を説明するため上洛することも伝えたが、京都府としては書類形式が整っている以上は認証を拒む事は出来ないとのことだった。この時、末寺の知らない間に書類が提出されてから既に一ヶ月近く経っている。離脱申請を受け取った京都府文教課宗教係は文部省に対応を相談したが、宗教法人法をはじめ諸々の規定を確認した結果、書類上の不備が無ければ承認を断る理由が無いとの結論に至ったらしい。
 こうして離脱申請が承認され、真言宗東寺派から東寺(教王護国寺)は完全に独立した。270以上の末寺は置き去りとなった。なお、教王護国寺と共に歩調を合わせて神泉苑などの数ヶ寺が同時に離脱申請している。神泉苑らは前年には離脱について教王護国寺から相談を受けており、これら離脱寺院によって「新たな宗派」を結成する目論みだったという。

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(神泉苑。現在は「東寺真言宗」に所属)


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 3月17日には全国紙でも報道され、朝日新聞には「本山の運営に末寺からの介入、制約がきびしく、このままでは宗教法人としての教王護国寺の自主性がまったく失われる」との教王護国寺側の離脱理由が掲載された。
 同様の趣旨が各紙に掲載されると、当然ながら末寺は猛反発した。「当局が語ったとして、新聞紙上伝えられるところによれば、末寺は金を出さず宗派運営の邪魔者であるとの事で有るが、離脱者は正気で言っているのか、世人を惑わすも甚だしい」と、神奈川支所は痛烈に批判している。

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(『朝日新聞』昭和40年3月17日号)

 この時点では、宗務長兼寺務長の田中清澄が総本山側の代表格、神奈川支所の湯口英巌が宗派側(末寺側と言った方が良いかもしれない)の急先鋒といった様相になっていた。
 湯口の所属する神奈川・関東の末寺達は、室町時代から教王護国寺を本山と仰ぐいわば譜代大名であり、真言宗東寺派の中でも大勢力だった。湯口ら曰く、今回の離脱劇は戦後にやってきた「外様大名」による総本山乗っ取りだとすら語っている。
 当然、総本山の動向に憤っているのは神奈川だけでない。兵庫支所長は「離脱劇を演じた人達は宗教家では無い」と非難し、総本山側の言う「金を出さず口を出す」云々についても、むしろ宗費を徴集しなかったのは総本山側の故意であり末寺の発言力を削ぐためにやっていたことでは無いかと疑念を示している。
 ともかく、本山側と末寺側が直接顔を合わせる次の宗会は3月31日召集となった。大混乱は必至であり、各方面で注目の的となった。
 湯口ら関東勢は前日に京都に入り、全国有志と対応を協議した。宗会議員全13人中11人がこれに参加し、本山に対しては末寺の知らないところで離脱した理由を問うことで一致している。

 
 3月31日午前11時頃、教王護国寺書院で注目の第26次定期宗会が開催された。田中をはじめ教王護国寺側、湯口ら宗会議員・宗派側による離脱後初の直接対決の場だった。
 開会直後、田中宗務長は「宗派離脱によって木村管長は自然失格となったため自分が管長職を代務する」と宣言、また当局は辞表を提出するが、これら離脱に関することについては信仰に関することなので秘密懇談会で話すとし、すぐに議案が配布された。議案はいつもの如く歳入支出の予算案である。
 議事へと移った直後、川密一寿議員が秘密懇談会云々について批判し、「事態は重大だ。教王護国寺の離脱は、東寺派(末寺側)の言い分も世間の人にその意を聞いてもらいたい。ガラスばりでいこう」と提案した。議員のうち湯口ら9名がこれに賛成している。
 また、「教王護国寺が宗派から離脱したためにその長者たる木村氏も離脱となり、よって木村氏の宗派管長職が自然失格となった」とする田中の説明にも異議が唱えられた。木村氏は奈良の観音寺住職も兼務していて、そちらの寺はまだ宗派から離脱していない。ならば木村氏個人は離脱しておらず、自然と管長職のままという状態なのでは無いか。
 この他、議員側は離脱に関して当局を追究するが、当局側は「宗会はあくまで東寺派の今後を話す場で別法人たる教王護国寺のことを話す場では無い」「法人が違うので答えられない」と一切答えようとしない。秘密懇談会なら個人の立場として答えると言うが、それには議員側が納得しない。
 こうして宗会は荒れに荒れ、当局側は話にならぬと一方的に退場、宗会は一度休憩となった。
 午後三時の会議再開に際して、議長の宮本宗仁は当局側に出席を求めたものの、予決算以外には答えられないと出席する気配が無い。当然、議員側はそんな主張は受け入れられず追及姿勢を崩さない。間に挟まれた宮本議長はなんとか議事を進めようと、当局側の籠る部屋と議場とを行ったり来たりしていたという。

 結局、午後6時半になっても当局側は出席せず、議場において原弁梁副議長は審議不能を理由に「休会」とする結論を下し各議員も了承した。
 予決算については継続審議とする旨を説明した後、原副議長は「将来の東寺派の運営を如何にするかということについて意見の交換をしたい、新聞などでは東寺派が悪いように書いてある。当局と末派とどちらが正しいか、意見を吐露し、各新聞記者、傍聴者もいるので聞いてもらいたい」と、公開懇談会を開催した。
 当然、川密や湯口ら各議員からは当局側への不満や批判が爆発した。国宝売買の時同様に末寺側への連絡が何も無い、そもそも末寺の多くが宗派へ寄付している、離脱について信者から問い合わせがあったが議員であるにも関わらずこれでは何の回答できない…等々。
 川密に至っては木村が管長になった時点から離脱計画が進んでいたのでは無いかとの疑念を吐露している。思えば木村管長就任後には突然の任期延長など、不自然な宗派運営が多々あった。
 こうした批判が飛び交う中、欠席裁判は良くないとする松田密玄のような意見もあった。今は批判に終始するのでは無く、現実的にどうするかを議論すべきだと主張している。
 とりあえず、4月15日に再度集まり対応を協議することで合意し、大紛糾となった第24次宗会は散会となった。午後8時40分のことである。議会としては「休会」という認識だったが、当局側は18時以降の議会再開を認識していないため、「流会」だと主張している。

19650411 『高野山時報』 昭和四十年四月十一日号01

(『高野山時報』昭和四十年四月十一日号における記事の見出し)

 上記が教王護国寺が真言宗東寺派を離脱した主な経緯である。前年度には宗派・総本山で議論し新規則制定まで至ったが、それで問題は解決せず、むしろ本山側としては末寺による影響力が増していると感じていたらしい。それにしても突然の離脱劇だった。
 こうして離脱後の教王護国寺は自らを本山とした「東寺真言宗」を設立して今に到るのであった…という話であれば理解しやすいのであるが、この紛争はさらに捻じれた展開に向かっていく。


 4月15日午後3時、神戸の大倉山仏教会館に宗議員の他、兵庫支所の人々や他宗派の傍聴者など多くの参加者が集まった。宗派側の意見交換会、および議員による協議会である。
 話合われたのは木村大僧正の宗会を経ない管長辞任や田中清澄の代務者効力の有無などについてだが、結局のところ、この問題をこれ以上大きくすることは避けるべきであり、あくまでも礼を尽くして当局と交渉し円満な解決を計るべしとの結論に至っている。
 この協議後、湯口ら代表者三名が田中清澄を「宗務長」と認めた上で訪問し、二時間にわたる会談を行った。田中は教王護国寺の寺務長であると同時に、未だ東寺派に籍を置く寺院の住職も兼任していた。そのため宗派の役員としての責任は取れるということになったのである。会談自体は終始和やかだったようで、木田宥岳ら穏便に問題を解決しようという宗議側に対し、田中も「話し合えることは話あい、時と人とを待つことも考えられる」と応じたらしい。当然、末寺の一部では「話し合えるところまで一応ゆくが、もし最悪の場合は当局を訴える」との覚悟もあった。


 ともかく、宗教法人真言宗東寺派と宗教法人教王護国寺という二つの宗教法人は、関係改善へと進みだしたのである。


 この時点で、「東寺派規則」の中にある「総本山は教王護国寺」とする条文や、「宗務所は教王護国寺内におく」とする条文は生きている。教王護国寺からすれば信仰上の縁は切れていないし、宗務所については貸し出している状態で、むしろ宗派に協力しているという立場だった。
 さらに言えば宗派の「管長」も空席である。従来であれば教王護国寺のトップたる「長者」が宗派のトップ「管長」も兼ねており、今後もその形が望ましいのであるが、いかんせん教王護国寺自体が宗派に属していない。現状は教王護国寺の役員を兼ねつつ宗派にも籍を置く田中清澄が代務者としてその任を務めている。
 これらの問題について、将来的な総本山との和合を目指しつつも新たな規則・枠組みを考えなければならない。昭和四十年から宗議側と本山当局側で新規管長選挙や宗議の任期、規則について話し合われるようになった。
 当局側、というより教王護国寺側の意見を通そうとする田中代務者と、湯口議員をはじめ末寺側の声を代表する宗会側で意見対立は度々あった。特に問題となったのは田中代務者の立場である。田中代務者はあくまで木村管長の代理なのであるから、任期失格後には改めて管長を選ぶのが好ましいはずである。しかし、未だに教王護国寺離脱後の管長選定について新規定が定まっておらず、また管長選挙において投票権を持つ寺院の名簿(選挙人名簿)の調査作成が遅れていることから田中代務者がその地位に留任し続けた。当局側としては選挙自体が行われていないために任期満了後即日再任という認識だったが、末寺側からすれば田中代務者が「不法に居座っている」ように見える部分もあり、文部省に問い合わせまで行っている。
 こうした問題を抱えながらも、両法人は年月をかけて徐々にではあるが歩み寄っていった。


 離脱から二年後の昭和42年には真言宗東寺派の規則変更が文部省から認可され、改めて宗会議員の選挙が行われるようになった。
 翌昭和43年2月24日には第29次臨時宗会が開催されて田中代務者も臨席、東寺客殿において新たに選出された宗会議員が集結した。議長には鷲尾隆輝が選出されている。

 この宗会では「制度調査委員会」が立ち上げられている。未だ道半ばである宗派の新体制確立に向けた組織で、同年3月11日には宗務所の設置について話し合われた。
 この時、宗派としてはやはり宗務所を教王護国寺内に設置したいが、「東寺派として新発足するために全寺院をもって新しい宗務所を建て清新な気分で進むこと」を期して、畿内のどこかに新設することが検討されている。この新体制の象徴としての宗務所建設には特に力を入れていたようで、委員会だけでなく宗会も加わって宗派・末寺・教王護国寺・その他関係者と何度も検討を重ねていった。こうした中で宗派と教王護国寺とのやり取りも増えてゆき、信頼関係が再構築されていったらしい。

 昭和44年3月29日午後1時、制度調査委員会が教王護国寺書院で開催された。この会議には木田宥岳会長以下調査委員と共に教王護国寺職員も参加している。
 この日の会議では宗務所建設の費用の目途について話し合われた後、畿内にとされていた建設地についても検討が行われた。
 委員からは「東寺派が確乎たる決心を持てば、代表者と共に教王護国寺へ建設地提供につき頼みに行く」との声が上がり、教王護国寺が所有する東門近くの土地を借受けて建設すべきとの結論に至っている。寺側の職員も参加した中での結論なので、おそらく寺側も同意していたのだろう。一時期冷え切っていた両法人の仲は親密になってきていた。
 翌日には第31次定期宗会が開かれ、田中代務者は「末寺が本山に対する従来の考え方から脱する時が来たが、東寺派が他に先立って革新するようになったのは禍転じて幸となったわけ。答申に宗務所建設の意志表示があったのは同慶の至りで、自分の東寺派とこう考えを持たねばならぬとともに、永延の道を進むには一歩一歩踏みしめなければならない。」と述べ、末寺側が協力して宗務所を建てるとした宗派の姿勢を評価した。
 こうして、建設費は末寺が協力して出し合い、土地については教王護国寺から無償提供という形で宗務所建設計画が動きはじめた。この宗務所は、宗派の新たな出発の象徴であるとともに、総本山との融和協力の象徴にもなるため、末寺は苦しい中から資金を提供した。その熱意に応じて本山側も協力的となっていく。

 昭和45年10月23日の第33次臨時宗会では宗務所建設の完遂を目的として宗会議員の任期を二年延長することにしている。この頃には教王護国寺側も建設予定地に境内を提案するなどかなり協力的となっており、宗会の鷲尾議長は「東寺本山と東寺派がうまく融和して協力しつつある象徴が東寺境内に宗務所が建設されること」と語り、これが達成されれば「東寺本山と東寺派は益々協調して血のかよった本末となることになろう」と感激している。
 翌年の第34次定期宗会では建設地が東寺境内の北門横に決定。田中管長代務者は「この融和団結の精神をどうか宗務所建設の完成まで持たれたい」と述べ、鷲尾議長も「これ全く本山当局のご指導により実ったもの」と両者はかなり親密になっていた。

 こうして宗務所建設の諸準備が進められ、昭和46年12月1日には北門横の予定地において宗務所地鎮祭が行われた。午前11時から行われ、その後宗会と本山当局が打ち揃っての懇談会が開催されている。鷲尾議長らや木田、原といった宗会側と、田中管長代務者、沢村教学部長などの教王護国寺側の人間が顔を合わせた。
 この席では宗務所建設の日程(翌年5月着工、8月竣工)とともに、宗派規則の改定についても話し合われた。特に問題になったのは「管長」についてである。木村管長が失格して田中管長代務者がその席に座り既に5年以上が経過していた。鷲尾議長は「制度調査委員会で宗規の改正案を作成し、今期の定期宗会にかけて、管長公選を行いたい」と、正式に管長を選定しようとの意向を示した。翌年の3月の宗会で規則を変更し、5月に管長選挙実施、8月に宗務所の落慶法要と同時に管長就任式を行う計画である。懇談会に次いで行われた第35次臨時宗会でこの計画は反対無しで可決された。なお田中代務者はこの席上で、次期管長選挙への立候補の意志を示している。

19711215 『六大新報』 昭和四十六年十二月十五日号02

(『六大新報』昭和四十六年十二月十五日号)


 翌年8月の宗務所落慶・新管長就任式こそ、宗本融和した東寺派の新たな一歩である。末寺を初め関係者は期待に胸を膨らませたに違いない。関係各位は建設に向けて邁進した。

 しかし、この宗務所地鎮祭の日を境に、宗務所建設計画は終焉へと向かい、2つの宗派が並立する事態を迎えることになる。


(続)


【主な参考文献】
『朝日新聞』 昭和四十年三月十七日号
『朝日新聞』 昭和四十年三月十八日号
『中外日報』 昭和四十年三月十九日号
『中外日報』 昭和四十年三月二十日号
『中外日報』 昭和四十年三月二十一日号
『中外日報』 昭和四十年三月二十五日号
『中外日報』 昭和四十年三月二十七日号
『中外日報』 昭和四十年三月三十一日号
『中外日報』 昭和四十年四月一日号
『中外日報』 昭和四十年四月二日号
『中外日報』 昭和四十年四月十七日号
『六大新報』 昭和四十年四月五日号
『六大新報』 昭和四十年四月二十五日号
『六大新報』 昭和四十年八月五日号
『六大新報』 昭和四十年九月五日号
『六大新報』 昭和四十二年四月二十五日号
『六大新報』 昭和四十二年十月二十五日号
『六大新報』 昭和四十二年十一月二十五日号
『六大新報』 昭和四十二年十二月五日号
『六大新報』 昭和四十三年一月二十五日号
『六大新報』 昭和四十三年三月五日号
『六大新報』 昭和四十三年三月二十五日号
『六大新報』 昭和四十三年四月五日号
『六大新報』 昭和四十三年八月五日号
『六大新報』 昭和四十四年四月五日号
『六大新報』 昭和四十四年四月十五日号
『六大新報』 昭和四十四年八月二十五日
『六大新報』 昭和四十五年十一月十五日号
『六大新報』 昭和四十六年四月十五日号
『六大新報』 昭和四十六年五月十五日号
『高野山時報』 昭和四十年四月十一日号
『高野山時報』 昭和四十六年六月一日号

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