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宗派と総本山 (上)

 京都には世界遺産が数多くあるが、その中でも市街にあって有名なのが東寺であろう。木造建築としては日本最高の五重塔を擁し、景観を守るため条例であまり高いものを建てられない京都では、五重塔を様々な場所から望むことが出来る。その歴史的古さも相まって、あの司馬遼太郎も知人に京都を紹介する際には真っ先に案内したらしい。

 正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」というらしいが、法人名としては「教王護国寺」である。「東寺」という名称も創建当時からあったそうで、羅城門を挟んで対称する形で「西寺」というのも鎮座していた。この西寺は時代が下るにつれ衰退してしまったが、現在では浄土宗西山禅林寺派(永観堂が本山)に所属する後継寺院が再建されている。
 空海が本拠地としたこともあり、「真言宗十八本山」のひとつにも数えられている。真言宗と言えば高野山が有名だが、その高野山とは明治維新後に総本山的地位を巡って争ったくらいで、まさに最重要寺院の一つと言えよう。

 真言宗は各本山を中心とした「派」に分かれて運営されているが、東寺も「東寺真言宗」という宗派に属し、そこでは総本山の地位となっている。逆に言えば、東寺を中心に集まった寺院で「東寺真言宗」が形成されていると言って良い。

 ところが、それとは別に「真言宗東寺派」という宗派も存在している。というより元々、東寺は総本山としてそちらに属しており、その後に現在の「東寺真言宗」の所属となった。現在では東寺は「東寺派」とは無関係という形をとっているが、どういう経緯で「真言宗東寺派」と「東寺真言宗」という二つの宗派が存在することになったのだろうか。

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 戦時中、真言宗各派は国策により「大真言宗」という一つの宗派にまとめられた。ただし戦後になって「信教の自由」が到来すると「真言宗●●派」という風にそれぞれ独立していく。
「真言宗東寺派」も昭和二十一年に独立し、当然「東寺(教王護国寺)」が総本山となった。

 なお、以降は混乱を避けるため東寺については「教王護国寺」という表記を使っていく。

 昭和二十七年には宗教法人法によって真言宗東寺派は法人として認可されるが、この際に定められた「東寺派規則」は法人格取得のため、形式的に作られた感があったという。
 この「東寺派規則」というのは真言宗東寺派にとっての憲法みたいなもので、こうした規則は宗教団体が「法人」になるためには必ず制定し、行政に提出しなくてはならない。神社本庁も創価学会も、伝統宗派も新興宗教も、そしてそれらに所属する個々の神社やお寺や教会などの法人も、それぞれ規則を制定し、その規則に従って宗教法人を運営している。

 その宗派の規則が、総本山・教王護国寺にとっては不満だったらしい。教王護国寺側の人間だった田中清澄が後に記した『本末断機の習い』という文章には、この宗制の下で積もり積もった不満が列挙されている。

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(離脱後の『高野山時報』に掲載された「本末断機の習い」)

 教王護国寺が何よりも問題視していたのが、この「東寺派規則」の下では総本山・教王護国寺のほぼ全ての決定権が「宗派」側にあることだった。

東寺派規則
第二十四条 宗会は、左に掲げる事項について議決する。
一、宗制及び宗規その他の規定の制定又は変更に関する事項
二、教王護国寺の規則及び規程の制定又は変更に関する事項
三、この法人(真言宗東寺派)及び教王護国寺の基本財産及び特別財産の制定及びその変更並びに処分及び担保関する事項
(後略)

 この他多くの条項で「この法人及び教王護国寺」という表記がなされている。つまり宗会は「真言宗東寺派」だけでなく、総本山「教王護国寺」の規則や運営、活動などの決定権を持つ状態だった。
 宗会というのは教団の諸々を決める会議で、日本政府で言えば「国会」にあたる。国会が日本の法律や税金の取り方・使い方を決めるように、宗会が「真言宗東寺派」の決まり事やお布施の集め方、お布施の使い道等を決めている。
 宗会は国会と同じく「議員」が集まって開くもので、東寺派の宗会議員は定員七名だった。全国の末寺から選ばれる公選議員が五人、寺院及び教会の代表役員から一人と教王護国寺塔頭寺院の代表役員から一人が特任議員として選出される形となっていた。
 宗会議員のほとんどが末寺から選ばれている以上、総本山であるにも関わらず教王護国寺は宗会で発言力を持つことが出来ず、宗派の運営に強く関わることが出来ない。しかも、その総本山が関与できない宗会によって、総本山の規則や財務が決められていた。総本山・教王護国寺にとってこれが許せなかった。

「教王護国寺の独立宗教法人としての自主性は完全に奪われ、挙げて宗派の特に宗会の独断に委ねられることになっており…」
 宗教法人教王護国寺は、宗教法人真言宗東寺派に所属するとは言え個別の宗教法人である。独自の規則があって、それに従って運営されるはずだが、その運営どころか規則の変更まで宗会に決定権があるのは、まさに自主性が守られていない状況だった…と、田中は主張している。
 また、教王護国寺は戦争前後の混乱期の衰微から立ち直ろうと努力してきたという。これは洛南高校の建設などの活動を指しているが、それらについて東寺派からの援助は微々たるもので、ほとんど教王護国寺が自前で資金を捻出してきたらしい。それどころか、真言宗東寺派の運営費のほとんどを総本山・教王護国寺が負担しており、他宗派には見られない宗本関係があった。昭和39年の第19回定期宗会では宗派の予決算の99%は教王護国寺が占めるとの発言も出ている。

 以上が、田中清澄『本末断機の習い』における主な主張である。こうした総本山側の不満に対し、宗派・宗会側もある程度理解を示していたようで、「東寺派規則」の改定に向けて話し合われることになる。

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木村澄覚管長
(『高野山時報』)

 昭和38年3月28日、木村澄覚管長が臨席し、第20次定期宗会が開催された。木村は教王護国寺のトップ「東寺長者」でもある。
 宗会では議員と共に、運営上の質疑応答を行うため宗務長など東寺派の当局が参加する。当局というのが国会で言うところの内閣で、実務レベルのトップ・宗務長、その他財務部長や教学部長、庶務部長などが出席し、収支や問題点などを発表、議員とともに話し合った上で今後の宗派の方針が決まる。

 この時の議案には「真言宗東寺派」の予決算、「教王護国寺」の予決算などと共に「東寺派宗制一部変更の件」が提出された。
 まず木村管長の挨拶の後に開会式を行い、北川亮暁議長から議案の説明がなされた。
 次いで田中清澄宗務長が
「提出議案中の宗制一部変更の件はもっと早く提出すべきだったが、変更しつつある他派の特長を参考し、本山興隆宗派活動を阻害する所以を考え、宗教法人法に基づき、完全自治の大きな責任を果たすために、責任役員の議決を経て宗会の承認を得ることに成った。」
「私は七回目の宗議会だが、この改正に踏み出したことは思慮が浅かったと考えないでもないが、これ以上延ばすべきでないと提出した。」
と語っている。

 宗会ではまず最初に予決算について話し合われるが、その席上、関東区選出の湯口英巌議員が、宗派と総本山で財務区分が曖昧な部分を質問し「運営上宗派と教王護国寺を別立してはどうか」と提案。
 これに対し田中宗務長も「多年の慣行で事後承認の形で行っていたがその点宗制不備であった、湯口師の御意見はよい参考になったので、今後よい宗制を作りたい」と回答した。

 そして予決算審議後、休憩を挟んで午後から宗制改正について議論が始まった。
 田中宗務長は「湯口議員の意見の如く宗派と本山を分けなければ繁栄はない。機が熟したので提案する。管長は教王護国寺住職の立場にもあり二法人の代表なので、本山の気持を宗派に及ぼし宗派の気持を本山に及ぼすので、それを分離したい。また昔は本山は絶対的であったが、今は本山も末寺も一個の寺院になって昔の本末関係はなくなったので改めて本山末寺は民事契約によって奉仕し助け合って行く方が強い結合になる。今後は実質的な団結を図りたい」
「東寺派の管長、護国寺の住職、二つの法人は二つに切り離す。護国寺が宗議会で運営されるのは誤りであり、今後は東寺を護持するものに大きな発言権を持たすべきだと思う」
等々と語り、なるべく全会一致での可決となるよう求めた。
 そして教王護国寺役員側が用意した改正案が読み上げられた後、数点の質疑応答を経て、全会一致で「規則改正」が承認された
 真言宗の専門雑誌『六大新報』では「画期的宗制大改正という有意義な今次宗会を終わり…」と記載されていて、この議会が重要かつ有意義だったと認識されていたことが分かる。


 ところが、この第20次宗会を契機に長い騒動が始まることになる。


 この約一ヶ月後の5月3日、神奈川県の東寺派宗務所支所では末寺の代表者が集まり臨時総会が開かれた。これは宗会に参加した湯口議員が、その内容を地元で報告・説明する場だったが、ここで「宗制改正」について説明したところ「重大事」との結論に至った。
 なにせ宗派運営の根幹たる「規則」を変更するのである。時間をかけてじっくりとその改正文を考えなくてはならない。そこで先輩諸師や役員代議員を推薦し、彼等と専門家を交えた委員会を設け「改正案」の文面を吟味・作成させることを計画した。

 その委員会設立の準備をしていた最中の5月20日、湯口が文部省を訪れた際、応対した係官から思いがけないことを伝えられる。
 第20次宗会後の4月10日時点で既に東寺派規則改正について提出があり、現在はその提出書類の不備から返戻中だと言う。
 湯口からすれば、宗会で「規則改正」は決まったものの、その内容についてはこれから話し合うものだと思っていた。にもかかわらず、既に改正手続きが行われていたことは教王護国寺の「独断専行」のように思えた。

 湯口はすぐに神奈川支所で会議を開き、「教王護国寺は宗会を経ずに改正を提出しており不当だ」との決議を採択、田中宗務長に対し意見状を送り付け回答を求めた。7月には湯口名義で北川議長に対し「本案件(規則改正)が継続審議案であること、文部省への変更手続きを取ったことは無効であること」の二点について質問状を送っている。さらに、この質問状等の写しを東寺派の各寺院に送り、檄文のような形で周知を図った。


 神奈川支所がここまで動いたのには理由がある。この数年前、教王護国寺は所有していた国宝や重文を、末寺に報告も無く売り払ったことがあった。

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(売却が進んだ昭和46年の『六大新報』の記事。この時期は朝日新聞や毎日新聞で同様の記事が出ている)

 「真の宗教活動は教育の場をつくることだ」
 前法主・山本忍梁の死後、昭和三十四年頃から教王護国寺は教育に力を入れ、それまで不良学校とまで言われていた東寺高校を一新し、洛南高校として校舎を新築するなど様々な事業を積極的に行っていった。そしてその事業の度に銀行からの借り入れがどんどん増えていった。
 この事態に教王護国寺は境内に洛南会館などを建設して観光収入を伸ばし、それで負債を返済しようと目論むも、苦しい経営が続き、結果的に負債は増える一方だった。
 ここから「文化財よりも人材」を合言葉に、教王護国寺所有の国宝や重文が売りに出されていく。国宝『山水屏風』、『類聚明義抄』、重要文化財『絹本著色童子経曼荼羅図』などが文部省や京都府、天理図書館、世界救世教美術館などに売却され、そこで得た資金が運営費や借金返済へ充てられた。後に発覚することだが境内敷地も抵当に入っていたらしい。
 神奈川支所が檄文を蒔いた昭和38年時点で国宝・重文四点が売却されていたことが明らかになっており、教王護国寺側が言う「法人としての自主性が奪われ」云々という主張にも不信感を抱いていたようだ。むしろ、このまま自主性とやらを認めてしまえば、教王護国寺は当局による私物化が進むのでは無かろうか…と。
 神奈川支所が全国に送付した檄文には「学校建設等に使用したかも知れぬが(中略)寺宝を次から次へと売らなければ運営のつかぬような当局の人達の反省を切に望む」と、規則変更とともに文化財の私物化とも言える寺宝売却問題への批判がなされていた。

 こうした動きに対し教王護国寺も反応する。7月5日に木村管長名義で声明が発表された。
 文化財の私有化との批判に対しては重役の了承を経ているため私有化とまでは言えないこと、学園設備は人づくりの場所であって教学実践の場であること、確かに文化財売却は自慢できることでは無いが教育施設や人材育成が如何に大切なことであるかは人類の常識である、規則改正については末寺も総本山も法人であって誰のものでも無いこと…。
 そして湯口議員の言う「規則改正は宗会の合意を経ていない」という指摘に対しては、第20次宗会で湯口も含め全会一致で賛成していたことが当時の報道から見ても明らかであると主張した。

 教王護国寺は国宝・重文を売却する際、国に対して所定の手続きをしっかりと取っている。売却譲渡先も国家や京都府、美術館といった今後とも寺宝が保護される見込みのあるような所へ譲渡していた。中には結果的に海外へ流出した寺宝もあったが、それでも教王護国寺としては文化財の売却・譲渡に必要な手続きは取っていたし、所轄官庁の許可も得ていたので法律的にも何の問題も無かった。
 ただ末寺からしてみると、一部の会議だけで宗派の財産とも言える文化財を譲渡してしまったのは納得いかなかっただろうし、逆に教王護国寺側も自らが所有する寺宝を「宗派の財産」と言われることは不本意だったろう。教王護国寺からすれば末寺は財政的に苦しい時も支援してくれなかったでは無いか、という気持ちが強くあったのかもしれない。

 このように、東寺派・末寺と教王護国寺の紛争が過熱し始めたため、7月27日に第22次臨時宗会を開催し、事態の収拾を図ることになった。


 午前十時から始まった宗会では御法楽の後にまず木村管長のからの告諭となった。
「老衲不徳の故に宗内を和を乱すこととなったことは、大師の遺弟として恥入るばかりであります。本日このような議題のもとに、臨時宗会を開くことは約二千年の伝統ある本山にきずをつけたのではなかろうか。唯悲泣するのみであります。一味乳水和合の僧たる宗徒が本山首脳を疑い、本山は末寺院に信をおくことの出来ぬということは、全く祖師の聖訓に違背していることとなる。依って本日高祖の聖訓をよくよく肝に銘じて慎重に御審議を願うことを切望し、小衲も諸君と共にひとしく三宝の奴となり、教法社会の形成に意をそそぐことを願うものであります」
 開会式を終え、次いで田中宗務長が身体の都合から代理答弁させる旨が述べられた。
 こうして宗会がはじまり、代理・三浦財務部長が提出議案「宗制変更に伴う処置に関する件」について説明している。
「東寺派と東寺とは信仰上、宗本一本であるが、行政上では独立したもので犯さず犯されないものであるべきである。文部省へ認証申請した改正規則は、説明不足のため誤解を生じたと思う」とし、宗派が政治・組合活動といった俗諦門、教王護国寺は出世門のものとして独立した立場で束縛されずに活動するのが宗教法人だと言う。そして、規則については認証後に悪い部分を改めていきたいと、変更申請について理解を求めた。

 ところで、教王護国寺が文部省に変更申請した規則の条文の中で、湯口らが不満点として挙げたのは「教王護国寺」の文字が全て外されたという点だった。
 今までの規則においては、前掲の二十四条のように教王護国寺の規則変更や財産・運営も宗派が権限を握っていた。それを是正するための規則変更であるから、宗会が権限をもつ範囲を定めた項目に「教王護国寺」が含まれていたのを抹消するのは理解できる。ところが、今回申請されたものには第二十五条をはじめ本山規程の部分すら抹消されていた。

第二十五条
この宗派が包括する宗教団体は(中略)教王護国寺をもつて本山とし、その他の寺院及び教会をもつて末寺とする。(条文全削除)

 所属宗派の規則に、どこを本山としているのか書いていない。この事態に湯口をはじめ末寺などは不安感を覚えたが、三浦部長は「本末関係が宗派規則になくても条項はそのままでよい」と説明した。
 また、湯口議員は第20回宗会ではあくまで宗派規則の改正条文が出来た後に解散選挙を行い、新議員による認定を得るという「ワク」に賛成したのであって、条文案にそのまま賛成したのでは無いと主張し、これに異を唱えた議員と論争になった。そこでいったん宗会を休憩とし、午後からは公開懇談会という形で、相互和解の道を探ることになった。

 懇談会においても湯口らと当局側で意見が分かれた。
 改正の細部について委ねられたとしても、改めて宗会の承諾を得るべきで、そのまま文部省に出すのは良くない。本末関係を断たねば宗政運営ができぬという理由が分からぬ…と湯口は言い、公開質問状についても回答を求めたが、結局解決せず、またも休憩を挟んで今度は法律の専門家を交えての話合いとなった。
 立ち会ったのは自らも曹洞宗僧侶である田辺哲崖弁護士である。田辺は、宗派規則に本末関係の記載が無くても、末寺側の規則に記載すれば良いという。
「理クツを並べると欠点もあろうが、円満に大らかにやって欲しい。荒立てると宗門のマイナスになる、新聞種にならないように、宗教家らしく解決されたい」
 田辺は和解を促し、これを受けて当局と湯口ら神奈川支所側は『覚書』を作成、後日、休会となっている宗会を再開することで合意した。
 この『覚書』では”規則変更の手続きはお互い協力すること”、”当局は規則の本末関係条項の復元を履行すること”、”制度調査会を設けてその結果に基づいた宗制変更をすること”の三点が盛り込まれ、宗務長、宗会議長、湯口の三者で保持することになった。

 8月2日には改めて宗会を再開し、覚書の内容に基づいて今後の方針が審議された。そして制度調査会の詳細や新規則による選挙の細部についても話し合われ、どうにか和解の道へ至ったのである。
 全議案終了後、田中宗務長は「当局の行届かぬところ多々あり臨宗(臨時宗会)を重ねたのは遺憾、また分かりきったこととして軽率に答弁しなかったこと、管長に御心配をけたことを詫びる。今後あやまちないようにする」と語り、湯口議員も「不徳のため耳ざわりな事を述べ皆様に迷惑をかけたことを反省している」と述べ、両者が対立を乗り越えて新たな規則作成へと邁進することになった。

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(『六大新報』昭和38年12月)

 その後、『覚書』の通りに制度調査委員会が結成され、規則の条文や本末関係の復元、議員の選挙区などといった件について1年以上話合われている。こうして作られた新たな「東寺派規則」を元に昭和39年11月、宗会議員選挙が行われた。
 新たに選ばれた宗会議員は公選議員が五人、特任議員三人で、昭和40年2月16日の臨時宗会で顔を合わせることになる。この臨宗は顔合わせと正副議長の選出などが目的だった。
 午前10時に開会式を行ったが、木村管長は「自分は昨年より身体の具合悪く失礼する、何卒宜しく」と言い残して退場した。田中宗務長が「定期宗会までに各位の顔合わせを行い御批判を承りたい」とし、宗会が始まった。
 宗会では僧侶の昇進等について話し合われ、手続きの不備などで多少議論になったものの全体的には和やかに進み、何事も無く終了した。
 本会議が終わった後、田中宗務長は次回の定期宗会の日程を3月30日にしたいと提案、賛成多数により決定された。この時、湯口議員からは議案を宗会前に送って欲しいと要望されている。
 ともかく、こうして宗派(末寺)と総本山の内紛は終息し、新たな規則・新たな宗会のもとで真言宗東寺派は再スタートを切ったのである。



 教王護国寺が京都府に宗派離脱を申請したのは、この10日後の2月27日のことだった。
 急転直下の事態に、真言宗東寺派は大混乱に陥ることになる。


(続)


【主な参考文献】
勅賜東寺一千百年紀念法会臨時事務局『東寺畧史』(大正十一年)
『日本の仏教全宗派―付仏教界人名録』(大法輪閣、平成六年)
『日本「宗教」総覧93』(新人物往来社、平成五年)
『六大新報』 昭和三十六年四月五日号
『六大新報』 昭和三十七年五月二十五日号
『六大新報』 昭和三十八年四月五日号
『六大新報』 昭和三十八年七月十五日号 
『六大新報』 昭和三十八年八月五日号
『六大新報』 昭和三十八年八月十五日号
『六大新報』 昭和三十八年九月十五日号
『六大新報』 昭和三十八年十二月五日号
『六大新報』 昭和三十九年七月十五日号
『六大新報』 昭和四十年二月二十五日号
『高野山時報』 昭和三十八年四月十一日号
『高野山時報』 昭和三十八年九月一日号
『高野山時報』 昭和四十年四月十一日号
『朝日新聞』 昭和四十六年四月二十七日夕刊
竹見靖秋『総本山のゆくえ――真言宗東寺派と東寺真言宗』(民族文化研究会 第15回定例研究会発表)

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