高すぎる共感性を持つということ
これまで、SOSを出して欲しい、という視点で書いてきたけど、SOSを受け取る側の視点では書いていなかった。
というか、受け取れる側の人にとっては前回までの記事を読んだだけでもう痛い程色んなことを感じている事が想像できる。
なんでも受け取ってしまう程、感受性が高く共感性の強い人は、自分のSOSには気付きにくい。
一つ、受け取ってしまった物事についてあれこれ考える。
痛かっただろう、辛かっただろう。悲しかっただろう、と想いを巡らせる。
時には当事者が気付いてなかったり思ってもみなかったところまで想いを馳せたりする。
それだけで済めば、まだいい。
想い続けて沼にはまると、ついには
「私に何かできる事がなかったのだろうか」
「何もしてやれなかった私は最低だ」
と自分を責め始める。
そしてもっと深く沼にはまると、
「自分だけ楽しんでいてはいけない」
と今度は自分いじめや卑下が始まり、ついにはSOSを拾い上げるどころではなくなる。
人の気持ちに寄り添うのは良いとしても、他人の深層は、その人本人しにか分からない。
「私なら絶対言わないようなこと」
を他人は平気で言ったりする。その言葉に傷つくあなたに聞いて欲しい。
どうしてあんなこと言うんだろう?あんな事したんだろ?普通はしないのに。と考える前に
まずその人を認めてください。
「この人はこういう考え方をするんだな」 と。
どうしても気になる時は
その人は、その言葉を言ってしまわないといけない状況にあったのではないか?考え始める起点をずらす。
それも、その人なりの背景があり、心があり、想いがあることだからと考えると、受け止めやすい。
自分なら、とか一般常識なら、と考えるのは世の中全てを知らない一個人には到底難しいし、理解は及ばない。
「この人は、そう思うんだね。」
「私とは違うけど、そんな意見もあるんだね」
そんなふうに考えていけるようになると、
他所は他所、うちはうち。
という昭和のお母さんたちの名言の意味がよく分かるようになる、今日この頃。