これが、人生を生きる。ってことなんだって認識すること

想いを口にする機会が。

想いを口にせずとも、解決と発散をしてきた別の方法が。

ココ最近は、やはりとても少なくなった。


自分自身が今何に対してストレスを感じているのか、ざっくりとは理解していても、その「詳細の声」や「程度がどうなのか」が不明確なので、「どう発散できるのか」まで不明確になっている。


なので、今まで以上に、「自分を吐き出してあげる場所」がとても必要なんだなと思ったのでした。

そんな私の、「今週」を振り返ってみようと思う。


ホテルで迎えた、月曜の朝


ココ最近、ホテルで休業をしていないところはとても安い。

土曜の夕方にきれいなホテルに着いて、いつも歩かない場所を「コロナに関わらず人ってやっぱりいるな。こんなに良い天気だからな」と思いながら歩き、昼間から一人でホテルで飲み、「心の声」を吐き出すメンター的な人と二時間くらいオンラインで話して、大学の友達と夜もオンラインで飲んだかと思ったら朝少し早起きしたので寝てしまった

朝、起きるのがとても気持ちいい空間だった。

なんて幸せなんだろう。なんて幸せなことに気づいたんだろう。って思いながら。


普段触れないテレビに触れて、月曜は気持ちよくダラダラした。

なんだか集中できなくて、ふわふわのベッドで横になった。

月曜は会社で様々な会議があるから、どうせ最後頑張るんだから、と自分にご褒美を上げる感じで。

夜は、、、マクドナルドを食べたっけ。笑

本当は、サイゼリアでおもり帰りをして自宅サイゼをしたかったんだけど・・・最近夜は飲食店が閉まるのがはやいからなあ。

この日は、まさにホテルに居る。って感じの日だった。(本当はもっと仕事に集中しているはずだったんだけど。笑)


火曜の朝、自宅に戻った


なんだか、家が恋しくなっていた。土曜から三泊したからだろうか。

捨てなきゃいけないゴミがあって、それが気になっていたから、だろうな。

きれいすぎる自分の香りのついていない場所にいるのは、はやり「期間限定」で、たとえ家で歌えなくても、気持ちいい水圧のシャワーをあびれなくても、ふわふわのベッドじゃなくて横を向いて寝れなくても、

私は、「私だけの場所」に帰りたがるんだなぁと気づく。

コロナになって、今まで気を遣うことのなかった家の中の環境に、少しずつメスを入れ始めた。多肉植物が増えて、掃除をマメにするようになって、空気がきれいになって、洗濯も乾いたら畳んで、視界がクリアで整頓された部屋になった。

冷蔵庫にも電源がついた。いざつけると、なんでこれを今まで渋ってきたのかよくわからないなとさえ思う。冷たい飲み物が飲めるようになった。

なんと最近「自炊的」なことを始めた。レンジでチンするだけで作れるものが多いし(大好きなフライドポテトはたいていあげないと行かないものだけど)他には、アボカドを思う存分食べれるようになったし、朝と夜は、外にでなくても健康的なものを食べられる食生活に変わった。

その中で怖いのは、「今の精神状態や当たり前」が、たった小さなことであっという間に崩れ去って、前の自分に戻ってしまうことだ。

本当に小さなこと。で、かつ習慣的なことに壊される。

生理前、少し今までより生理痛やイライラが大きかったり。ほんの少し。

思いがけないくらいに、仕事で精神をやられてしまった。できない自分に、何よりも負がなさと悔しさと、自身を許すことのできない完璧主義に苦しんでしまったり。

何度もダイエットを志すのに、外的要因にさらされる生身の自分が変わってしまうことが怖いよ。ただでさえ一日前と、変わらないことなんて一個もないのに。


みんな少なからずそうなんだろうけど。

この前も会社の飲み会をして、久しぶりに話すことはとても楽しい瞬間が合って、一つのことに一緒に向かっている仲間である以上、「語れるものが多い」のはとてもいいなと思った。仕事を通して構築できる信頼関係は、やっぱりただ飲み会を重ねる人よりも深く、根深いものが構築できると思った。

ただ、程々の距離感で、やっぱりいいなと思った。


毎日、全員と顔を見合わせたい、とはまったく思わない。

一ヶ月に一回、全員で集まれる場があればいい。

少ないコミュニケーションですら、「相性」が良くなくていらっとしたり、求めるものがすれ違って不機嫌になったり。

まぁ、でもみんなそうだよね。

自分以外の人間は、理解しているようでまったく理解もできず、交われない人間であって、求めるように動いてくれないのは当然中の当然。

ステークホルダーが多ければ多いほどそのきっかけは増える、その中で、全員が折り合いをつけてやっている。

私だけが完璧な揺らぎのない中で活きたいんだったら、一人の世界で活きていけばいいと思う。それはそれで、別のフラストレーションにさいなまれるんだろうけど。

今の状況で、今の環境で、バランスと折り合いをつけていく。それが結局は、巡り巡って振り返ってみれば恋しくなるものでもあるんだろうな。


これが、生きるってことなんだろうな。



すでに心のもやもやに苛まれた水曜日


リフレッシュできていたと思っていた、だって火曜日の朝まで私はホテルに居たわけだから。

でも、水曜日の日中にはすでに「自分はできない」「できないことが億劫だ」「もう向き合いたくない」「でもやらないと」

そういう、責任感と、使命感と、逃げたいという欲求と、誰かに監視されている自分は頑張らないといけないという恐れと、

「できない自分」を受け入れることができない完璧主義の私が、息ができない状態で苦しんでいた。


一気に視界が狭くなった。

仕事が自分の人生の全てになった。

「仕事ができない自分」なんて、早く抜け出したかった。

そこから抜け出すには行動をすること振り返ることが一番妥当だとわかっていながら、時間的にそこにマックス消費することは、「自分の時間」ですら仕事に捧げることを意味していた。

それを、頑なに拒んだ。「自分の時間」が少しでも「仕事の時間」になることが嫌だった。


「自分の人生のバランス」が、仕事とそれ以外の時間を担保することでとれると思っていたし、今も思っている。それを壊したくなかった。


何かで突き抜ける際には、努力をしている他の人よりも頑張って、そりゃあ最初はうまくできないんだから夜までもしくは早朝から時間を費やすことになるだろう。

本能では、「誰よりも突き抜けたい」と思っていながら。

感情のバランスを保つために、時間の差分を狂わせたくなくて。自分が苦しい悲しい思いをする可能性のある場所に「必要以上に触れたくなくて」。

でも、置いていかれたくなくて、できない自分をそのままにしてあげられなくて、「危機感で」朝起きてルーティーンもせずに仕事に向かった。


本能が、欲求が2つ存在していて、そのバランスをとることがとてもむずかしいと気づいた。


今までの意思決定の軸は、「今しか」できないのかどうか。だった。

今のタイミングでしか味わえないものがあるなら、迷いなく手を伸ばした。自分の新卒というタイムリミットや、会社のフェーズや、与えられた選択肢から。


私は今、今しかできないこと。をしているのだろうか?

はやく、はやく、「売り方ですら確立されてほしい」と思っている。「自分が何を話そうか」なんてことで、迷いたくないから。お客さんと話すことを怖がりたくなんてないから。

でも、それは確立されたと思って、少し経つとまた迷って。だってどこにだって100%はないけど、「スタートアップという発展途上国」に80%だって存在しないんだから。少なくとも、只中にいるその瞬間は感じることもできないんだから。


私にとってこの組織が、ポジティブじゃなくても、愛することができなくても。最後の最後まで、「自分には合わない」と思っていたとしても、

「なにかの瞬間」に、心から感動して涙が出る状態でいたいかどうか。

もう、それだけ。

私が、その状態でいたいどうかっていう、それだけ。

スタートアップに飛び込むのは、その瞬間なくして、わざわざ選択する意味ってないと思う。


だって給料も、働く時間も、内容も、過程も、状況も大きく変わっていく。変わっていく、頑張っていたことが、遠くになっていくことだってよくある。

理不尽なことが多い。

理不尽ばかりだから、相手の嫌なところだって変に強調されたり、嫌いになったり、相性が合わない人はいつも以上に敬遠したくなる。土台がすでに不安定だから。

私は、自分の心のバランスが壊れることが嫌だよ。

壊さないでよ。って思う。

崩れていて、壊れていた頃があるから。麻痺していて、「何が自分のほんとうの幸せなのか」を考えることなく盲目になっていた時期を知っていたから。

その頃を思い出すと、二度と戻りたくないって思う。願う。

同じ状況になったとしても、今は少し位うまくやっていけると思っているけど。「自分が目先に埋まってしまう」癖はまだ治らないよ。今ですら苦しんでいるよ。だから怖いんだよ。


いつの間にか、「自分を守る」ことを第一優先にするようになった。

前は、会いたいと思っていた人が目の前にいたら何も考えずに走って話に行った。今も同じような状況に立ったら同じことができるかな?

今思うと怖いくらい、世間知らずで、その分自分のスタンスを見誤っていたけど、でも「あの頃の世間知らずの私」が、今の私を作った。

自分のスタンスを「ある種」正しく認識すると、私は何者でもないし、何の価値もないし、何の行動も無ければ何かで突出しているわけでもない。


でも、その「ある種」ってなんだ?

私はいつまでも私で、私でなくなる瞬間なんて存在しなくて。そうである以上、「外部から見た私」って、私にとっての「正しさ」とは違うんだよな。

私はわたし。私が認識する私が、私にとっての私。


「何者かになりたい」って願う私は、変わらず存在している。

何者かになって、何者にかさえなれれば、毎日が刺激だらけだろうと思っている。

そう、「毎日に刺激が欲しい」。本当に求めているのは、ただそれだけなんだよな。

新卒のときもそうだった。「一日として同じ日はない」という魔法のような言葉に、とんでもなく心を打たれた。

社会人として数年たって実経験が伴っている今も私も、同じことを願っている。潜在的な部分からの欲求ってことなんだな。

ただ、飽きのこない、毎回が異なっていて、驚きと喜びがその中に分散されていて、慣れの来ないひたすらに新しい物に触れていたい。
その中で、変な方に深くなってめんどくさくなってしまう人間関係はどこかに置いておいて。自分が好きだと思う人達とだけ、広く触れる。

そんな環境で生きたいんだ。私はずっと変わっていない。


もう少しくらいだったら、柔軟になってもいいのかも知れない。

痛みを感じることに、客観的になってもいいのかも知れない。

泣ける瞬間のために、模索を続けてもいいのかも知れない。

自分の人生のバランスを取れる日は、「好き」に触れていれば、ふとした時に来ているかも知れない。


そう思った。


少し進む自分と状況に、小さく一瞬わくわくした木曜日


時間はたしかにかかっている。

時間がかかっている中でも、確かに「自分が学んでいる」「成長している」と感じる瞬間に出会える。

その瞬間が、とてもしあわせだ。

学習欲が。何者になりたい欲求が。少しばかり前進するから。


ただ波のように、周りの動きなど「コントロールできない」外部要因で焦って、バランスを崩したり。

コントロールできないんだから諦めろって話。いい加減。

いつまでそれに振り回されて生きているんだよっていう。

私自身が不幸になるだけの、選択。

ふざけんなっていう。


コントロールできないの。

コントロールできないことに、分別つかずに怒りを感じてばかりだと、私自身がただ不幸せなだけ。

それだけ、っていうとても悲しい状態だから、私よ。忘れないでおくれ。頭に血がのぼったときであっても、それを思い出せるようになっておくれ。



一生モノの私よ。

誰よりも愛したいと願っているからさ。




感情の整理が、一対一で話すことで出来た木曜の夜と、そのおかげですっきり起きれた金曜日


ただただ、その相手がいることに感謝。本当にほしいときに、機会が巡って来ることへの感謝。

一対一で話すことの充実感を、オンラインで繋ぐようになってから思うになった。幸せだな。



これを通して、何をしようかな。

でも、もう少し柔軟になることと、自分自身の成長や変化に「感情のベクトル」を持ってくること。が大事なんだなと思う。

それって極論、場所って関係ないんだろうけど。

でも、場所を変えることが、「そのきっかけ」になることは素晴らしいよね。



そうやって何度も。何度でも、自分と対話しよう。

何度逃げたって、自分であることからは、一生、一瞬たりとも逃れることは出来ないのだから。

変わることを前提に、何度だって初心に帰ろう。

何度だって、音楽を聴きながら泣きそうになりながら、過去のことを思い返そう。今の自分の感情を整理しよう。

自分への愛を確かめよう。ちゃんと取り戻そう。


そうやって生きること、試行錯誤をしながら「生きる」ことを毎回味わおう。

これが、人生なんだ。って。