「人を許すことが出来ない」原体験の、根本にある悲しい感情

前回の記事から一週間がたった。

「人は当然、不完全だ」ってことを認識する

これは、前回の記事の最後に書いたことだった。

「人を許す」ってことをびっくりするくらい出来ていなかった。自分の思考の中だけで完結できるリモートワークで、「顔を出さないでも」MTGできる状態にあまえて、(そもそもまずは自分の働く環境を整えることに必死で)

以下、一ヶ月前くらいからの時系列

自分の環境つくり(適応)→自分の思考の中で完結する癖→とはいえ前と変わらず他者との関係の中にいることの気づき(関わり方が変わっただけ)→他者の言動やこだわりなどの享受をすすめることが自分の心の穏やかさにつながるってことを認識する(今ここ)


昨日のオンライン飲み会で、「キャピキャピ系女子」に久しぶりにあった。

少し前までは、「可愛こぶって」って妬む気持ちなのか、関わりの中から外すことをすることで、自分の醜い気持ちと向き合うことすら避けていたけど。

なんでって、「本当は自分だってかわいい格好をしたい」って思っていたし、

「それが男受けがいいことをわかっていて選択しているんでしょ」って裏をかいて勝手に思考していた。

そうやって、「誰かに愛されることを前提にした計算高い女」っていうのが、嫌いだった、そういえば(世の中にたくさんいるんだろうけど)

私は、そんな女とは違うってことを、証明したかったんだろうな。

自分に自信がないから、自分の価値がわからないから、そんな底辺な基準で生きている女とは違うって思うことで、【自分の下を作ることで】安心し、自分の価値を感じ、その思考を肯定する。

これは、仕事でも出てくる思考で、「自分以上に結果を出す人」に、失敗してほしいと思う、自分より下に行くことを切に願う。

自分を、より一層引き上げるっていう選択をすることがせずに。

足を引っ張り、彼の成功を純粋に喜ぶことが出来ず、不幸を願う。

彼らが「先に」いくことで、「自分の立ち位置が危ぶまれる」ことを恐れる。

「変わらない」人っていないし、同じ場所に続ける職場でもないのに、自分が今の場所にこだわって、その場所を守ろうとする。


これって、コミュニティでも起こることで。

今までの「心地よい」と思っていた関係値、今までのバランスが崩れて、新しい人が入ってくることによって「また新しい状態に変わる」ことが往々にある。

その変化は、私にとって「イヤな」ものだった。前の話。

私の場所だった。

だいすきだった。大事にしたかった。

でも、ある人が入ることで、私は離れた。一緒にいたくなかったから。関わりたくなかったから。

その組織の中に入ることで、前の事件のように、「かき乱される」ことが本当に嫌だった。本気で作っておきたい大事にしたいコミュニティを、壊される可能性も、それで今の秩序が乱れてしまうのも。

一方で、それ以外にも私がこだわる理由があったように、今思えば気づく。「私の居場所」を取らないでほしいと思ったのだ。

今まで築き上げてきた、想いを込めて運営をしてきた「記憶」も「わかちあった経験」も「絆」も。

そのままで、あってほしかった。

そのままで、変わらずに、熱く、模索をしながら、一緒にいたかった。

びっくりするくらいに、そこのメンバーが大好きだった。だから、合わないメンバーが入ってきたりすると、迷惑をかけられると「怒り」を覚えた。

バランスが崩れることが、今まで担保されていた私のポジション(ある種メインメンバーであり、主要であり、なくてはならない「はず」であり、面白い素敵な人っていうイメージ)を、危ういものにした。

私を失ってでも「コミュニティの存続」を選択する仲間に怒りを覚えた。

「私はいなくてもできるんだったらやってみれば?」とおもった。そこまで存続を希望して、私が関わらないことでもいいと選択をするんだったら、やってみればいい、と。

コミュニティの存続より、個人の私を選んでほしかった。

(1)私達の絆は固く熱いもので、これからも変わらないのだと証明してほしかった

(2)「私はいなくてもいい」と、私の存在を否定してほしくなかった。代替が効くと思わないで。

7割は、「私発信」の欲望。3割は、「コミュニティのため」。


でも昨日、久しぶりに話したときに、「変わらない関係性」を感じた。

時間が経っても、離れていても、また出会ったら「あの頃」に自然と戻るんだって。

ニート明けのときも感じたことだった。関係性は、また触れさえすれば蘇るのだと。


周りが変わっても、自分発信の直接的な関係っていうのは変わらないものだな。奪われるとか、なくなるとか。そんなことは、「形を変える」ことはあっても根本的に関係性が消滅することはない。

仕事だって、周りが変わることがあっても、「私がそこに存在をしていて、そこで発することができる力も、スタンスも、何も危ぶまれない」と。


外部環境内での私の立ち位置が変わることはあっても、それが自分を否定する要素にはならないのだと、

心から認識することができる瞬間がくるといいな。


自分と違う人がいるってことが、会話を楽しくする。価値観の違いが、驚きや感銘にしながったりする。いつまでも話すことができるのも、会うことに飽きないのも、自分と違うからなのかもしれない。

違うってことに、すこーしだけ優しくなってみるというのだろうか。

自分と違うってことを、「一旦受け入れてみる」ってことなんだろうな。

それが優しいかどうかは置いておいて。


それが、巡って、「私の心のため」なのだと、「心の平安」「生きる中で伴い続ける捉え方」のため。

自分を豊かにする上で、自分の幸せのために、必要なことなんですよね。

気づけてよかった。体験を持って向き合うことが出来てよかった。そうしようということを決める「余裕」があってよかった。

心に、神様に感謝。