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わからなさとエヴォみ、そして想像力の欠如について

 最近Takram Castの過去回でエヴォみについての話を聞いて、いろいろ思うところがあったので、思考の整理のためにつらつらと書いてみる。
Takramメンバーがドミニクチェンさんと、「解釈」を誘う、「行為」を誘う、「参加」を誘うという3段階のエヴォみの話をしているのだが、これもわかるようで完全にはわからない概念ではあるが、非常に面白かった。
わからない余白が子供たちの心地良い場所にさせる、わからないようにデザインされた演劇、客観的データを挿入してわからないことを認識させる仕組みなど、いろいろな具体例が出てきた。

 これを聞いて、私にとって、わからないという余白がある状態は、想像力を掻き立てられ、とても居心地が良いゾーンになっているんだなと気づいた。
 専門的すぎて半分くらいわからないようなラジオ番組や本が好きだし、「今この瞬間」を自分の外に意識を飛ばして「この瞬間この目の前の女性はこんなことを考えていて」「この瞬間遠いあの国のあの人はこんなことをしていて」なんて考えるのが好きだ。つまり、わからないこと自体が大好物で、それを解釈しようと頭をぐるぐるさせたり、想像で補完することはもっと楽しい。また、わからないことをわからないまま放っておいて、しばらく経った時に急に何かと繋がって、「なんかわかりそう!」という瞬間もまた楽しい。

 でも世の中には、わからないことで不安になる人も多い。予想外の結末を迎えるような映画をみた後に、ネタバレを読んだり、この後どういうことが起こったのかというのを質問したり、メディアで言及したりすることがある。こういう映画は、むしろ観客に委ねてくれたことを感謝して、たっぷり想像するのが良いアプローチだと思う。

 ともかく、わからないこと自体にも意味があるし、わからないことがわかっただけで少しだけ世界が広がっているから、それだけで楽しいことだと思いたい。さらに想像力があったら、もっと楽しいよね、というはなし。

 最後に、このタイミングだから、好きだったテラスハウスにも言及させてほしい。ショッキングな事件だったが、あれはまさに想像力の欠如が人を殺したと言っても過言ではないと思う。テラスハウスに台本があった、ないなどの議論も交わされているが、そんなことは些細なことで、そもそもカメラが介在する空間なんだからフィクションである前提だし、それくらい想像つくだろう。一瞬で流れていく呟きが、自分の言葉が、人を傷つけることができることくらい想像つくだろう。そんなことも想像できない人が、SNSなんて使うべきじゃない。

 もっともっと想像力を働かせなきゃ

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