「さあ、生きるぞ」って思う日
2011年3月11日14時46分。
10年経ついまでも、あのときのことは鮮明に覚えている。
10年経って、久しぶりにYou Tubeでそのときの映像を見た。なぜだかわからないけど涙が勝手にあふれてくる。この感情はなんなんだろう。寂しいのかこわいのか、よくわからない。
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大学1年生が終わる春休みだった。静岡から横浜に上京し、ひとり暮らしに、大学に、バイトに。そんな真新しい、生活のリズムにもなんとなく慣れて1年が経とうとしていた。
大学の春休みは長い。2月のはじめあたりから4月のはじめまで。約2ヶ月。
サンマルクカフェと居酒屋でかけもちのバイトをしていたわたしは、稼ぎ時だ!と思って、バイト三昧な毎日だった。
2011年3月11日。
この日も、石川町駅の目の前にあるサンマルクでバイトだった。
多分、午後からラスト23時までのシフトだった気がする。
いつも通りに出勤して、レジに立つ。なにも変わらない、いつもと同じように働く。
14時46分。
いきなり、隣にいたスタッフがしゃがみこんだ。その人は貧血持ちの人で、時々体調が悪くなって、早退をすることもあるような人だった。
「大丈夫かな。また体調が悪くなったのかな。」
声をかけようとした途端、激しい揺れが起こって、わたしもしゃがみこんだ。
長い揺れだった。それまでにも地震は経験したことがあったし、地元静岡では小学生の頃から「東海地震がくる」と言われ続けてきたし、毎年毎年夏休み明けの始業式には避難訓練が行われていた。
まさか、それがきたのか。
そんなことを考える間もなく、とにかくしゃがんで揺れをおさまるのを待った。
体感で30秒か1分ぐらい、体感で震度4ぐらいの大きな揺れだった。
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とはいえ、バイト中だったので、ホールに出て、お客さんへ声掛けをした。
そして、そのまま働き続けた。
その頃は、ガラケーで3G時代。バイト中だったこともあり、リアルな情報はいまのようには得られなかった。
その時わかっていたことは、震源地が東北の大きな地震があったこと。そして、横浜市内でも電車が止まっている。ということ。
つまり、みんな立ち往生で身動きがとれないから、電車に乗れない人がお店に駆け込んできた。とても忙しいなか働き続けた。
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本部から連絡があって、その日は早くお店を閉めることになった。19時か20時には閉店させた。
けれど、帰る足がなかった。
その日は店長が車で送ってあげるよ。ということで家まで送ってもらおうとしたけれど、さすがに遠くて申し訳なかったので、自分の家の手前の駅にある友達の家まで送ってもらうことにした。
道路は混んでいた。
まだ、そのときは大きな地震があったようだ、ということしかわからなかった。
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3月11日22時。
ようやく友達と合流できた。駅前で迎えてくれた彼女と合流し、コンビニに寄ってから家についていった。
そして、そこでようやく初めて、あの津波の映像をみた。
空中ヘリからの、あの津波の様子が映し出されていた。大きくて、茶色の波が田んぼを、車を、街を飲み込んでいる。
この現実が信じられなかった。信じたくなかった。同じ国で本当にこんなことが起こっているだなんて。地獄だと思った。
そして、意味がわからなかった。地震があった、という情報は知っていたけど、それとあそこまで大きな津波が頭の中でイコールで結ばれるのに、かなりの時間がかかった。
それまでの人生、地震=大きな揺れでなにかが壊れたり、阪神淡路大震災=「揺れ」「高速道路の撤回」という記憶しかなかったため、地震=津波ということ自体意味わからないし、信じたくないし、こわいし、心がぐちゃぐちゃになった。
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それから日常が日常ではなくなった。
3月12日の朝も電車は運行しておらず、違う路線からどうにかこうにか石川町駅に向かった。
家に帰ってテレビをつけるとACのCMがひたすら流れる毎日。
数日後、コンビニに行くと、商品が9割なかった。いつもあんなに商品で埋め尽くすされた棚がほぼ空で、必要かどうかもわからないけど、ひたすらあるものだけ買った。
計画停電も行われた。本当にあるのかと思っていたけど、本当に電気が通らないことがあったので、その日は早く寝た。
4月のはじめから再開される大学が5月のはじめからになった。一ヶ月春休みがのびた。
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1ヶ月のびた春休み。なにをしようか考えた。そのままバイト三昧もどうかなと思った。東北にもいかなければ、の衝動もあった。
でも4月はじめ前後のボランティアの受け入れはまだ制限があったような気がする。できることも限られた。
そして少しずらして、大学がはじまる直前のGWで、初めて、東北のボランティアにいった。
apバンクが運営する団体に申し込んだ。出発する数日前に新宿に集まって、説明会とチームわけがあった。5,6人の男女のグループに分かれて行動することになった。
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4月の終わり、新宿からバスで石巻に向かった。
夜新宿に集合して、朝現地に到着した。
走るバスから外を眺めると、テレビの中の映像が目の前にあった。
家の土台らしきものが広がっている。でも本体の家はない。
電信柱がポッキーみたいに、ポキっと曲がっている。
車が平然と横たわっていたり、3台4台きれいに積み上がったり、おもちゃみたいにひっくりかえっている。畑に頭からつっこんで刺さっているものもあった。
車が通る道路なはずなのに、ガラクタやドロのせいで道路が道路じゃない。
そこに住んでいた人がいるはずなのに、絶対にこんなところに住めない場所になっていた。
どんな感情になっていいかもわからなかった。自分がどんな感情なのかもわからなかった。いまでもわからない。
ひとまず、テレビの中の映像は嘘ではなくて、自分の目とにおいと空気と感覚の自分の全てで、目の前にあることを理解した。
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現地について、ひたすら道路のドロを袋に入れる作業をした。何時間も何時間も同じ作業をする。絶対終わらない。ゴールは見えないし、自分がやっていることの意味ってあるのかな。と思った。意味があるとしても、できることの小ささと、情けなさに泣きたくなった。
泣きたくなったけど、現地の人のほうが苦しいし、なんて言葉をかえたらいいかもわからない。自分のできることをやるしかない。涙をぐっとこらえて、その分、手に持つスコップをぐっとつかんで同じ作業を続けた。
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あと時から死ぬことをちゃんと考えるようになった。
あのときの映像をみると大量の涙が溢れてくるのとともに、不覚にも口角が少し上がる。諦めた気持ちになって、力が抜ける。
「ああ、死ぬって一瞬なんだ。」
どんなにしあわせな毎日を過ごしても、どんなに苦しい毎日を過ごしても、生まれたての生後数日でも、生まれてから80年生きてきたとしても、あんな津波が目の前にきたら誰でも簡単に死ぬ。命ってそんな簡単になくなるものなのか、と。
命ってすごくすごく大切で尊いものなはずなのに、終わるときは一瞬で儚い。それを、頭じゃなくて、心の底から理解した出来事だった。
え。じゃあ生きるってなに?そんな一瞬で終わってしまうのに、なんでがんばって生きているんだろう?わたしはどうやって生きていけばいいの?なにをしたらいいの?
そんなことを考えはじめてから10年が経った。
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大学を卒業して、東京でふらふらしてから京都にきて5年目になる。当時のことなんて、そんな頻繁に思い出すこともないし、死ぬとか生きる意味とか、そんなこと毎日考えているわけもない。
でも、今日は、今日だけは、記憶をあのときに戻して、深く深呼吸をして、「さあ、生きるぞ」って思う日にしている。
生きる意味はまだわからないし、多分死ぬまで考え続けるようなことなんだと思う。たしかに命は儚いけれど、それでも、たくさんうれしいことも楽しいことも、心がウキウキすることも、キュンキュンすることも、ほっこりすることもある。そういうものを味わうために、生きているのかなあー...でもまだよくわからない。。。
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去年、コロナの影響でトイレットペーパーがなくなった。
3.11に続く人生で2回目の事態だった。
きっと10年、20年以内に、また身の回りからモノ(食べ物or日用品)がなくなる、ということは確実にあると思っている。
迎えたくないけど、心の片隅にはおいておくべき事項だ。
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3,11から10年。
思い出したくないけど、明らかにあそこから、変わった、考え始めた。
いまもどういう心情になっていいのかはわからないけど、あったことは書き留めておこうと思って書いている。
命は尊い。とか、命を大切に。とか、なんかそういうことを書きたいんじゃない。そんな優しい温かい気持ちなんかじゃない。
その逆だ。命なんて簡単になくなる。すっごい簡単に、一瞬で。それぐらい儚いもの。だから、それまでの間はちゃんと生きたいし、あの日のこと、あの地震で亡くなってしまった方々の分まで、ちゃんと生きたい。
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