阿古の吾子(二)
『シセツ』の朝は早い。平日の午前と午後に一つずつ異なるプログラムを行う。一日中参加しても良いし、午前だけ、午後だけの人もいる。あさは社会復帰のリハビリの為だ、と自分に言い聞かせ、ここのところ一日中参加を続けている。
隣町の長い商店街を抜けたところに『シセツ』はある。途中コンビニで昼食用に、根菜が具の緑色のトルティーヤと麦茶を買った。このトルティーヤはあさのマイブームだ。お昼にこれが控えていると思うと、気分が上がる。小さな喜びの種を片手に『シセツ』の扉を開ける。朝の会がもうすぐ始まるところだ。
「おはようございます。」
とあさが挨拶すると、スタッフ3名とメンバーたちの挨拶が返ってきた。ロッカーに荷物を収め、輪の中に入る。わいわいとは程遠い空気だ。だからと言って、ぴりぴりしてる訳ではない。各自が自分を保つのに必死だからだろうか、とにかく静かだ。スタッフと雑談している人もいる。じっと一点を見つめている人もいる。貧乏ゆすりなのか、震えている人もいる。とにかく、他人と関わりを持たなくても良いような、ゆったりとした空気感に、あさは心地よさを感じる。朝の会は今日のプログラムを確認して、終わった。そこで、あさは自分の異変に気付いた。
(まただ。目の奥が重い。ふわふわして落ち着かない。)
不調のサインだ。これはあさが入院していた時からの不調のサインで、主治医にも相談していることだ。『シセツ』のメンバー何人かにも聞いたことがあるが、全く同じ不調のサインの人はいなかった。
「すいません。ちょっと不調なので、休んでます。」
あさはスタッフに伝えると、
「枕とかけるものは必要かしら?」
と聞かれた。どちらも要らないです、と伝え部屋の奥のソファに横になった。目を閉じて、うつらうつらしている時に頭に浮かんだのは、母の新しい恋人という斎藤だ。
(ヤバいやつの割に眼鏡がおしゃれだったな。最近寒いのにTシャツだし。思ったより早く帰ったな。媚びてこないだけ良いか。)
気付いたら眠っていた。スタッフに声をかけられ、起きたら昼食の時間だった。手洗いをして、トルティーヤの封を切る。何回も食べているが、まだ飽きないと思いながら、咀嚼する。午後のプログラムは、あさがDJの会と呼んでいる、メンバーがCDを持って来て1曲ずつかけるプログラムだ。毎月あるプログラムだが、普段聴かないジャンルの音楽を聴けるので、あさは特に楽しみにしている。今日あさがかける曲は、The Velvet UndergroundのAll Tomorrow's Partiesだ。元々好きな曲な上、あさが大好きな戸川純がライブでカバーしていて、あまりの嬉しさに泣いた思い出の曲だ。昼食を終え、午後のプログラムが始まる前、スマホを見ると母から連絡が来ていた。
「午後にアパートの水回りの点検あるの忘れてた~!あさちゃん立ち会って~!無理だったら後日頼むから~!」
無理ではない。仕方ない。スタッフに事情を伝えて早退させてもらった。『シセツ』を後にし、商店街を真っ直ぐ進む。DJやりたかったな、と思いつつ、今日かけようとしていた曲を鼻歌で歌う。内容はぼんやりとしか分かってないが、物悲しい雰囲気が、この季節に合っていると感じる。自宅の最寄り駅に着いて改札を出る。ふと目に入ったのはThe Velvet UndergroundのTシャツの男性だった。しかも、良くあるバナナのデザインではなく、メンバーの写真のTシャツだ。ハッとして、目線を上げると、あのおしゃれな眼鏡。斎藤だ。目線が合う。情報が多すぎて何から話して良いのか、分からなくなる。
「点検の立ち会いですか?」
(違う違うそんな訳ない。)
あさが一人でおろおろしていると、斎藤は、
「点検?違うよ。」
と一言。
(そうですよね。母に会いにですか。ヴェルヴェッツ好きなんですか。ていうかTシャツ寒くないですか。)
「うち来ますか?」
口をついて出た言葉に、あさはしまったと思った。母はまだ帰って来ないし、ほぼ見知らぬ男性を家に招くのは危険だ。
「じゃあお邪魔しようかな。」
(来るんだ。断ってくれ。)
なぜそこにいたか分からない、おじさんと二人並んで駅から歩く。
「あの、ヴェルヴェッツ好きなんですか?いやあ、私も好きで、今日も聴く予定だったんですけど!ははは!」
と自分に社交性があることを強調しようとして、うまく話せない。自分に落ち込んでいると、斎藤は
「そうなんだ。僕も好きだよ。」
と事も無げに答える。そこから無言の時間が続く。職も知らない、母とどう出会ったのかも知らない、母の新しい恋人。毎度のことだが、どういうテンションで関わり合えば良いかも分からない。ただ一つ言えるのは、気に入られようとあさに媚びてこないということだ。その一点は評価できる。
そして自宅アパートに着く。点検が来るまで少し時間がある。あさは、このおじさんと少し向き合ってみるか、と思った。Tシャツじゃ寒い、冬になる少し前の日のことだった。