阿古の吾子(一)

「兄ちゃんもおかしいと思うだろ!なぁ!」
初老の男性が声を張って、こちらを見て同調を迫っている。
(兄ちゃんじゃなく、姉ちゃんなんです)
と反論する気力もなく、阿古あさは「はぁ。」とどちらとも取れぬ、曖昧な相づちを打った。胸のサイズは名前のイニシャルと同じAA。蛇顔でおかっぱに全身黒の服。性別を間違えられるのも当然かもしれない。慣れたことなので、あまり気にはしていない。
声がしたのは、スーパーの青果売場。あさはシャインマスカットを手に取り、買うか買うまいかで逡巡していたところだった。
(母さん今日は良いことあったって言ってたし、喜びそうだな。高いけど買おう。)
と、決定を下したところで、また声がした。その方向を見やるとさっきの男性が、今度は店長らしき人に、大声でごねている様子だった。
「こんなもの食えると思うか?あんたも食べてみろよ!おまえのところで買ったんだぞ!」
と、店長らしき人に、何かを突きつけていたのが見えた。パックに入った切ってある柿だ。どうやら渋柿だったらしい。
店長の「ご返金させて頂きますので…」というところまで聞いて、あさは初老の男性の観察を始めた。背は小柄、服装はTシャツにデニムにスニーカー。ボロボロに穴が開いたTシャツだとか、ソールが剥がれそうなスニーカーではなかった。良く見ると、メガネの形もシンプルだが、おしゃれだ。ロマンスグレーの髪と合っている。
(何者なんだ…)
とまた巻き込まれない前に、とあさはその場を離れた。渋柿のおっさんを遠巻きに見ている買い物客を押しやり、会計を済ませて、スーパーを出た。出口の自動ドアが開くと、ぴゅーっと冷たい風が入ってきた。ここ最近で、ぐっと日が短くなってきて、寒さが加速しているようだ。あさには、このくらいの季節が丁度良い。
あさは今日朝から行っていた、『シセツ』の帰りだった。隣町にある、精神障害者の為のリハビリ『シセツ』だ。あさは5年前の21歳の時に、統合失調症を発症した。緊急入院だった。退院後は、その『シセツ』に通っている。『シセツ』では、利用者20名程度とスタッフ数名で、様々なレクリエーションを行う。今日のプログラムは陶芸だった。他にも創作系のものや、料理教室もある。あさは障害者年金をもらいつつ、就労に向けて『シセツ』で日々研鑽を積んでいる。
あさはこの気候の中、近所の公園で本を読みたい衝動にかられつつ、家路を急いだ。母の帰りが遅い為、自分の夜ご飯は、自炊せねばならない。やっと帰って、あさは買ってきたセロリと人参できんぴらを作る。『シセツ』で覚えた、きんぴらごぼうのアレンジ版で、みりんの量と鷹の爪が味のポイントだ。メインディッシュは、面倒なので冷凍シュウマイにした。食材を切りつつ、炊飯器のボタンを押した。すると、
「阿古の吾子~!!ただいま~!!」
母が酔って機嫌が良いときは、決まってこの呼び方をする。あさがコンロの火を止めて、ドアを開けると、衝撃の光景が目に飛び込んできた。酒でぐでんぐでんになった母をかかえていたのは、さっきの渋柿のおっさんだったのだ。
あさは勘弁してくれと思いつつ、
「母さんそちらの方は?」
と聞くと、
「ナイスガーイ!」
と会話を終了させたくなるような返事が返ってきた。ふと横を見ると、意外にも、渋柿のおっさんは涼しげな顔で母を支えている。
そして、スーパーであさと出会っていることに気付いていないらしかった。
「さあ斎藤さん、狭いけどこっちよ~」
と母に促され、渋柿のおっさんは遠慮もせず、あさ用の座布団に座った。

このような父親もどきは、あさの本当の父が亡くなってから散々母に見せられてきた。初めの頃は、父親もどきと仲良くしようとか思っていた。しかし最近はもう誰でも良いから、母を大切にだけしてやってくれ、という思いに変わっている。
「シャインマスカット食べますか?」
とあさが作り笑顔で、気を利かせたように衝撃の客人に聞いた。
斎藤は眼鏡を上げ下げしながら見つめ、
「粒がきれいだね~!高いのに良いのかい?」
と聞いた。
「渋くはないはずです!」
と皿を出した。
シャインマスカットを数粒食べて、斎藤はあさと目線を合わすと、「付き合おうと思うんだ、僕たち」母の肩をぐっと引き寄せて言った。母は酔いが回って、ニコニコしたまま斎藤の肩に頭を乗せている。
(あー出た出たもう好きにしてくれ。)
と思ったが、なかなか祝福の言葉が出てこない。
「良かったね母さん!わたしはちょっと料理に戻るね。食事はしてきたんでしょ?」
「そうよ~!あさちゃんに紹介できて良かった~!」
と母が呑気に言うと、斎藤は気を遣うタイプでもないだろうに、
「じゃあ僕はそろそろ。」
と言って急に腰を浮かせた。良かったと内心ホッとしたあさは、その帰る後ろ姿を見送った。
(いつまで続くんだか。)
母の交際か、自分の障害者としての人生か、どちらともない独り言が口をついて出た。開いたドアから流れこんできた、もうすぐ冬を迎える空気を吸い込んで、あさは将来をぼんやりと考えるのであった。


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