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【エッセイ】コーヒーを買った日

コーヒーバッグを買った。

私は普段、コーヒーを飲む習慣がない。
自宅ではもっぱらお茶だし、食後のお飲み物はと訊かれたら、紅茶を選ぶことがほとんど。
ごくたまに、気まぐれに頼んでみる程度である。

香りは好きだけれど、苦味や酸味が得意ではないため、ちびちびといただく。
そんな私が、コーヒーを買った。
広いフリースペースやシェアオフィスのある商業施設の一角で、いつも素敵な香りを漂わせている、珈琲焙煎所で。

フリースペースにはソファやテーブルがゆったりと置かれ、ボードゲームやシェア本棚がある。
平日は人が少なく居心地がよいので、学校不適応の息子と、そこでよくゲームや工作をして過ごしていた。

かれこれ一年ほど、平日の昼間に長々と居座っているので、「よく見かける親子連れ」として認識されていたには違いない。
疲れた母が、ときおり息子に「ごめん、少し休ませて」と、座ったままこくりこくり居眠りしていた姿も、知られていたことだろう。
そのような顔見知りではあるものの、私はコーヒーを嗜む習慣がなく、道具も持っていないので、焙煎所で豆を買ったことはなかった。

その日、私はくたびれていた。
フリースペースには、いつもよりさらに人がいない、静かな日だった。
息子に断り、10分ほどテーブルに突っ伏して眠った。

起き上がったとき、焙煎所の店主さんが、コーヒーを一杯、こちらに持ってきてくださった。
「よかったら、どうぞ」
それは豆を買ったお客様に、待ち時間に提供されているコーヒーのはずだった。
私は一度も、お客になったことはない。
とまどいながらお礼を言う私に、
「今日はお客様も少ないですから」
店主さんは静かに笑ってくれた。

コーヒーは、とてもおいしかった。
私は味の違い云々を語れる舌はないけれども、香りがぐっと濃いのに、口に入れるとさらりと喉を通り、飲みやすい。
鼻を抜けて爽やかな香りだけが残る、控えめで優しいコーヒーだった。

店主さんはたぶん、私が眠気と戦わねばならないほど疲れていた様子を、目にしていたに違いない。
制服を着た子どもを連れているから、何かしら理由ありだ、とも思ってくれていたのだろう。

そうして、一杯のコーヒーを、ただ差し出してくれた。
私が目覚めたタイミングで、そっと。
誰かが自分のことを見ていてくれて、気にかけてくれて、温かな気持ちを贈ってくれるということが、何よりも嬉しかった。

今日を乗りきるのに十分すぎるほどの幸せをいただいた私は、初めてきちんとお店の品物を眺めた。
コーヒー通でもなく、購入予定もないので、今まで近づくのをためらっていたのである。
たくさんの種類があって、淹れ方を説明してくださる店主さんは、コーヒーを愛しているのだろうな、と思う。

自宅であまり飲まないので申し訳ない…と恐縮したところで、冒頭のコーヒーバッグを見つけた。
これなら、カップさえあれば家でも飲める。

味わいをどれだけ引き出せるかはわからないけれども、私はどうしてもコーヒーが買いたかった。
ちゃんと“お客”になりたかったのだ。
喉を通り抜けたコーヒーのような、控えめな優しさをくれた店主さんに「ありがとう」を伝えたくて。

家に帰って、自分で淹れてみたコーヒーは、じんわりと温かく、幸せな香りがした。
また買いに行こう。
今度は「おいしかったです」と伝えたい。


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