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痛みや悲しみについて ft.みなさん・禅のひとしずく

鯉は生きている!!!

午後11時、冷え切った瓶底みたいな夜、お寺の縁側で大きな池を目の前にして座禅を組んでいたわたしの心に、強烈に響き渡ったことばです。

2月中旬の5日間、禅寺にて、そこに住う方達と修行をしながら過ごしました。一日の多くを座禅に費やし、他の時間は作務と言われるお掃除・雑用をしたり、和尚さんの話を聞いたりしました。

ここに行く前、わたしは「苦痛」にどのように向き合うべきか、という問いを持っていました。苦しみや悲しみをもたらす出来事に出会ったときに、どのように対処すればい良いのか。昔のわたしは、「こんなことどうってことないよ、死ぬわけじゃないんだし」とて相対化させたり、「誰にでも起こりうることだから」とて諦めたりすることで、その苦痛をかんじないようにしようとしていました。ただ、最近になって、その苦痛を覚える自分の感受性こそは、とても特別なものであり、苦痛を苦痛として苦しみ切ることが大切なのではないかと考えるようになったのです。(詳しくは前回のnoteに書いてあります)

実際これを書いたとき、わたしは数日前に起こった一つの出来事に痛みを覚えている最中でした。側から見ればどうってことないくらいの、小さな、人間関係における悩みなのですが…。わたしにとっては確実に大きな苦痛であって、この苦しみを、自分は苦しみ抜くべきなのか、考えていたのです。

苦しみ抜く、とは言えど、その苦しみにゴールがあるのか、何を持って苦しみきったと言えるのか、全くわからず、でもずっと一日中そのことが頭から離れずにいました。こんなに苦しいんなら、やっぱり感情に蓋をして、忘れようと努めた方が良いのではないか?と何度も思いました。でもそうすることもできず、中途半端に苦しみを握り締めたまま、日々を送っていました。大きな濡れ雑巾を頭からかぶったような気持ちでした。

そんな中、たまたま訪れた禅寺チャンス(この出来事とは関係なく、だいぶ前から行こうと心に決めていたので、なんという偶然、と思いました)。わたしは答えを求めるようにしてその門を叩きました。仏教においては、俗世における苦しみを凌駕する「悟り」の教えが説かれています。「悟り」に触れることで、自分のこの苦しみの向き合い方について、ヒントがえられる気がしたのです。

また、時を同じくして、Facebookにわたしのこのもやもやを、藁にもすがる思いで投稿し、小学校からの友人や昔お世話になった方、最近知り合った同志、後輩、先生など、予想以上に多くの方からお言葉をいただきました。禅寺で全く新しいものの見方に触れつつ、休み時間を使って彼らとオンラインのやりとりをする中で、その個別具体的な言葉から多くを気づかされました。言葉をかけてくださった皆様に、この場で限りない感謝の気持ちを伝えさせてください。本当にありがとうございました。あなたとのつながりのうちに生きていることを、わたしは非常にうれしく思います。

今回のnoteでは、この禅的生活や、皆様からいただいたお言葉を噛み締める中で、わたしが更新した「苦痛との向き合い方」について、記させてください。

(なお、今回はこのnoteをまとめるにあたり、禅的生活をしていた際につけていた日記をKJ法にかけることで分析しました。viva KJ!)

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そもそも苦痛ってなんだ

禅的生活の中で、和尚さんが何度も繰り返すようにして仰っていたのは、「私たちは、意味付けの世界に住んでいる」のだ、ということでした。私たちはこの世界において、ありとあらゆる実体を錯覚し、名前を与え、貴賤を判断しながら生きている。私たちは世界を目で見ているようで、実際には心で見ている。「意味」が与えられなければ、私たちは認識ができないし、想起したり、考えたりすることができない。

でも、そこには本来何もないはず、らしいです。Aとか非Aとかいう二項対立を超えて、何もない。般若心経にこのような一節があります。

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空相

すべては空であり、生じないし滅しない。汚いとか綺麗とかいう価値もない。増えもしないし、減りもしない、ということだそうです。(わたしの小手先の禅の知識を基にした解釈なので間違っているかもしれません)(しかも、禅の教えは言葉を超えたところにあるそうなので(不立文字というらしいです)、こうやって言葉を与えた時点でそれは真理から離れているのですが)(とりあえずそんなもんだろうなあ、程度の解釈で)

悟り、という世界は、「無」の境地であると言われます。ただ、「無」という概念は「有」があってそれに対することで初めて生じる概念であるので、もっと厳密にいうのであれば悟りの世界には「無すら無い」のだと。

ということは、わたしがかんじているこの「苦痛」という感情も、わたしがが「空」であるはずの出来事に意味を与えて、それに苦しんでいるだけなのだと。「無」に近づくことができれば、心は穏やかになり、苦しみから解放されると。

そういうことでしょうか。

苦痛を感じ続ける=その出来事を大切に思っている、ということ?

でも、わたしはこの考え方に疑問を覚えていたのです。そうやって無に還すことで、苦しみを感じた出来事を無かったことにしているのでは?と。確かに、出来事に自分の心が安らぐような意味を選び与えたり、「無」であることを自覚してそこから離れていけば、安らぎを得られるかもしれない。でもそれは、出来事に向き合っていると言えるのだろうか?起きてしまった悲しみを、大切にしていないことの現れでは無いか?と思ったのです。

そんなわたしの思いを突き刺すような言葉に出会いました。それは、寺に持って行った平野啓一郎の小説『ドーン』に出てくる、このような文章でした。

苦痛とともにある限り、(中略)罪の意識も、耐え忍ぶことができるような気がした。(中略)苦痛だけが、癒しを与えてくれる。それは真実だと彼は感じた。快楽でも、忘却でも無い。ただ苦痛だけが、自分を未来に生かしてくれ、未来に生きてもいいのだと納得させてくれるはずだった。

『ドーン』の主人公アストーは、宇宙飛行士として火星探査に向かいますが、その道中、宇宙船内にてとある罪を犯してしまいます。帰還後、上層部からその出来事について嘘をつくように迫られた彼は、上記のように考えるのです。つまりは、嘘をつくという苦痛によって、自分はこの罪に対する癒しを得られるのではないかと。

わたしはこの時、とてもハッとしました。わたしが「苦しみをずっと苦しみ続けているべきだ」と思ったのは、それによって、「わたしはこの出来事を大切に思っている」ことを証明し、さらにはそれによって自分を安心させたかったのではないかと考えたからです。わたしは痛みを感じている、だからわたしはこの出来事にきちんと向き合えている、大丈夫だ、と。

だからこそ、わたしは苦しみから抜け出すのが怖かったのです。痛みを感じなくなるということは、わたしはその出来事を大切だと思ってないことになってしまう。それが怖かった。

そんな折、facebookでやりとりをしていた、詩を志すある方が、こんな言葉をかけてくださいました。

ある出来事に出会ったときの苦痛と他の時間にその出来事に向き合った時の感情はなんら矛盾しないという気がします。

こころがぽろぽろとこぼれ落ちていくような気持ちになりました。ああそうだなあ、と。苦痛が別の感情に変わるときがきたとしても、苦痛を覚えていたという自分のその事実は変わらないし、その時点での自分と、そうやって別の感情を抱く自分とは同じ自分であって、どちらか一つを選ばなくてはならない、ということではないのだということ。

本当の意味で「出来事を大切に思う」とは?

本当の意味で、出来事を大切に思うということ。それを証明するのは、「苦しみ続ける」ことではなく「感謝できるようになる」ことだと、わたしは今では思います。

苦しみを覚える経験をする中で、それを反故にすることなく、向き合い続ける。必死に考えて考えて考え続けて、学びを得る。その中で、出来事は痛みを覚えるものから、大切な教訓に変わります。結果として、わたしはその出来事に感謝できるようになります、ありがとう、と。

苦痛に溺れているうちは、ある意味で何も変化しません。言い方を変えれば、変化させなくていいのだと思います。湧き上がるネガティブな気持ちに、流されるようにして自分を浮かべていればいいのですから。でも、出来事を大切に思うとは、もっと主体的な営みであるはずです。その出来事と関わりを持ち、学びきること。出来事と自分との関わり方を、変化させてゆく。再帰的な関係性の中で、自分を更新させてゆく。

溢れ出る感情のありのままを認めつつ、出来事に与える意味を選び取ってゆく

小学校から高校卒業までの12年間をともに過ごした友人の一人が、こんなことを言ってくれました。

人間が不完全であるが故に抱く様々な感情は自分自身を高めてくれる

そう、人間は不完全であるがゆえに、出来事を目の前にした際、その歪な感受性が様々な感情を生み出すのです。お釈迦様はどんなことにも「無」とて動じず、心は凪いだままであるかもしれませんが、私たちはそうではない。圧倒的な意味付けの世界、「有」の世界に生きて、出来事に喜んだり、悲しんだりする。世界は、ぐわぐわ揺れる。

まるでそれは、光を乱反射させるプリズムのようです。無色の光を受けて、それを様々な色に分けて、様々な方向に屈折させるプリズム。それが、私たちの感受性であり、不完全ながらも愛おしい心のありようである気がします。

まずはその歪な感情の、ありのままを認めたいなあと思います。嬉しいなら嬉しい、悲しいなら悲しい、苦しむなら苦しい、と。

その上で、いつまでもその第一感情に固執することなく、(先ほども述べたように)その起きてしまった出来事にどのような意味を与え、その「過去」にどのような「今」を重ねていくのか、主体的に選び取ってゆく意志が必要なのだと思います。

めいいっぱい感じて、学んでゆく。そうやって生を重ねていきたいです。

終わりに

ここで今述べたことはあまりにも当たり前なのかもしれません。あるいは、考えすぎなのかもしれません。今回この問いを考えるにあたって、多くの人から「いろんなことを複雑化してしまってるよ」「鈍感さも時には大切」「スイッチのように切り替えて行ったらいいんじゃないかな」というお言葉をいただきました。わたし自身そう思います…。でもそれでも、どうしても考えてしまいます。頭でっかちお化けさんです。

このようなことを考えられる、今の自分の肉体的に満ち足りた環境と、言葉を与えてくれる身近な方々、多くの思想・書籍との出会いに感謝します。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。