still human断章
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still human断章

わたしの記憶の仕方は非常に断片的なありかたをしていまして、つないで首尾一貫した物語にするためには断片と断片との間にそれなりのフィクションの橋が必要で、でもこの体験には、特有のなにか、フィクションにすると捨象されてしまうなまなましさのようなものがあるので、その記憶のリアルな断片を断片のままで、書きます。時々、断片から出た光が別の断片によって屈折して、どこか遠くの地平に放射したりします。

still humanになる

黒い全身タイツに身を包み、「目」の代理を腰なり頭なりにつけ、vrゴーグルを被ったその瞬間に、わたしは人間であることを微妙にやめて新しい某(すなわち、still human)になる。そしてわたしの身体部位の役割は大きく入れ替わる。例えば腰にカメラをつけたなら、骨盤は自分の視角を規定する決定的に大切なパーツになる。足は時に移動手段に、時に他者との接触の機会になる。手も足と同様の役割を果たすと同時に、自分が今どのような体制でどのようなものに向かっているのか分からなくなった(混乱した)時に、「目」の前にかざし左右に動かすことで自分と世界との位置関係を知るための重要な手がかりとなる。頭はただの重たいこぶになるが、その内部で脳は混乱しながらもなんとか活動を続ける。口と鼻は酸素を体内に供給するものの、その呼気で皮膚と黒い布地との間に蒸れた空気を作り出す迷惑な器官になる。

頭と身体の逆転

わたしのからだ、脳、それらの繋がりはかなり覚えが悪いので、この「新しい身体様式」に慣れるまでに時間がかかるようである。「前に進みたい」と思っているのに横転したり、「右に進みたい」と思いながら左に傾いたりする。わたしのからだはわたしの意図に適うための道具であったはずなのに、いつの間にかそれが逆転している。からだが主になって、あたまが後からついてくる。

自分の達成させたい行為があるのなら、あたまで考えることをやめ、まずは身体を動かしてみなければいけない。哲学者・千葉雅也の言葉が思い返される。「頭を空っぽにしなければ行為できない」

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あたまで考えること筋道を立てることを封じ、行為を何度も繰り出す中で、にじり寄るようにして、あるいはぐらついた平均台の上を渡るようにして、私は自分の達成したい行為を一つ一つ確かめながら進んでゆく。

ごはんが食べたい、けど食べられない

上記したような「あたま空っぽ感」は、歩行や遊びなどの自由度の高い行為よりも、捕捉などのより具体的で限定的な行為の時の方が顕著である。今回の実践において私が特に印象的だったのは「ご飯を食べる」、具体的にいうのであれば「ボウルに入ったプリンを腰についた「口」から摂食する」ときの「行為」だった。

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私はプリンを食べるために、腰をできるだけプリンのボウルに近づけようとした。しかし、どんなに近づけても、なぜか口に届かないのだ。なぜだ…!?

この「もどかしさ」を感じた私は、からだ全体を使ってプリンと口との距離を縮めようとし始めた。だが、なかなか届かない。足を高くあげてみたり、腰ごと捻ってみたり、奮闘した。周りには何名かstill humanの仲間や「人間であることをやめきれていない人間」がいたが、私が在ったのは私の口と、私の目と、プリンのボウルだけが存在する真空の世界だった。そこで私は身をよじらせていた。一生懸命、思考ではなく行為した。

楽しかった。

からだの必然性と他者存在

からだは、自分と対象(e.g.プリンの入ったボウル)とだけが存在する真空の世界で、その距離を慮り、2つのあいだ/関係性を模索する。そして、対象との関係における特定の目的の達成(e.g.プリン)においてはどのような身体のありようが「必然」なのか、行為を通して弄り続ける。身体的な「必然」がピタリと当てはまって目的が達成された時、快感を覚える。この一連の動作は何一つ疑いがない。

ここに、「他者」という概念はあまりにも希薄なものとして存在するだろうと考えられる。他者はいないも同然である。still human中、羞恥心を抱いたことがなかったこともこれに由来するだろう。なぜか。一つには、他者がいることなど、考えている余裕がないからである。頭を空っぽにしなければ行為できないのだから。他方には、自分がstill humanであって、周りで自分のことを見つめている人間と同じ種族ではない(つまり、人間の規範が適用されない)と認めているからかもしれない。

原初的なstill humanにはモラルやルールなどの「こうしなければならないという観念」もなければ、理想的なstill human像もない。まさに構造からの「逃走」が起きているし、ホッブス的に言わせれば、もし逃走の結果いかなる規律も存在しないような自然状態が発生するのだとすれば次に始まるのは「闘争」である。(うまいこと言った??)(ダジャレ)

他者の視点-奇妙さ

話を戻して…前項では、からだの必然性を追求するstill humanには他者存在への意識が極めて希薄であることを指摘した。では、ここでその「他者存在」つまりは人間の視点に立ってこの出来事を眺めてみよう。すでに数枚の写真をみてお気づきかもしれないが、このstill human、人間の側から見るととてつもなく奇妙な動きをしている。ウネウネ気持ち悪い波を打ったり、転げ回ったり、変な体制で硬直したりする。

この奇妙さは、一般的には嘲笑の対象となるような、不格好なものだろう。しかし、人間として、時に深く魅了される瞬間があるのだ。ダンス未経験者の動きが、とてつもなく妖艶で美しく見える。これは狙って出せるものではない。still humanにとっての必然的な状態が、人間にとっての不自然であって、なおかつそれが人間を魅了する瞬間があるのだ。

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マジで美しい。ずっと見てられる。映像記録してるのに感動しちゃでかい声出しまくってすみませんでした。以後気をつけます。

「外科手術」

そんなこんなで他者存在をかなぐり捨て自らの身体的必然を追求するstill humanたる私は、ある時、still humanの仲間の(人間の部位でいうところの)頭部の装置が壊れかけている場面に遭遇した。この時、私の目は背中についており、正面を向く基本姿勢は、お尻を高く突き上げなるべく背中をまるませるスタイルだった。

このスタイルの私に、目を足先につけたstill humanが近づいてきて、「たすけて〜〜〜」と言ってきた。頭頂部にできた黒タイツの穴から、vrゴーグルに電力を補給するモバイルバッテリーが溢れ出てしまっていた。私は彼に向き合い、「外科手術」をすることに決めた。手術においては、モバイルバッテリーを頭に強く押し込めながら黒タイツのチャックを閉める、ということが求められた。

私は当初、姿勢を最大限丸めて、背中にある目で彼のバッテリーと黒タイツを捉え、手を動かすことで「手術」を完遂しようとしていた。だが、はじめてすぐに、この体勢の限界に気がついた。

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腕が死んでる。

触覚の復権

そこで私はふっと、背中にある目を使うのを諦めた。姿勢を変え、手が楽に彼のバッテリーに届くようにしたのだ。そして、自分の手の感覚、触覚だけを頼りに、彼のモバイルバッテリーの位置関係を把握し、無事黒タイツの中へと収め「治療」を完了させた。

これは「触覚の復権」とも言えるような出来事であったと、考える。

普段私たちは、視覚に支配された世界を生きている。人間の情報処理は70パーセント以上が知覚に由来すると言われる。さらに、近代科学の勃興以降、視覚は、対象と距離をとって理性的に観察し、その全貌を掴むことができるため、他の諸感覚よりも優位なものとして扱われてきた(科学の基本的な営為は物体の**観察、つまり、見ること**である)。

そして、その視覚がトップに君臨するヒエラルキーの最下層に位置するのが、触覚である。触覚は対象と距離を取ることができない。そのため、「正しい」把握をすることが難しい(盲人の象のたとえがわかりやすいでしょう)。

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そして、触れるということはその対象を何らかの形で変化させてしまう危険を伴う(たとえば、象の体に触れたら、象の産毛が抜けたり、象自身が怒ってしまうかもしれない)。

このように、触れるということは、長い間忌避されるべき行為だったのだ。

しかし、still humanとして生きる時には、視覚より触覚を優先させるべき事態がしばしば起こる。先述したような「からだの必然性」に従って生きた時、触覚による把握が優先される事態が発生するのだ。触覚を大事にしよう、と意識するのではなく、自然に触覚が優先されていく。

原初生命体としてのstill human

野口三千三は著書『原初生命体としての人間』の中で生化学者オパーリンを援用し、人間をはじめとする全ての生命の原初的な態は、「コアセルベート」であったと論じる。「コアセルベート」とは、水に分散したコロイド粒子が凝集して、コロイド・ゾルに富む微小液滴相と、コロイド濃度の低い周囲の平衡液相とに分離することによって生じた小液滴のことである。この液滴は途方もない時間の中で次第に一つの有機体としての形を成していった。

そうして発生した有機体(細胞みたいなやつ)最初に獲得した感覚こそが「触覚」である、と、中村雄二郎は論じている。触覚は元来、外界と自己との接面で生じている物事を把握するための感覚だった。その後、感覚器官が分岐/特定の器官が特定の感覚に特化した結果、眼球/視覚や耳/聴覚になっていったというわけである。

現代の人間においてドミナントな視覚に頼ることなく、触覚を志向することが自然と求められるstill human のありようは、もしかするとこの「原初生命体」に近いありようなのかもしれない。

「進化しなおす」

さらにいうのであれば、still humanを実践するということは、「原初生命体」的な身体にまで自分を退行させ、そこからもう一度進化しなおすことで、人間ではないもう一つの種の可能性を探る営みなのかもしれない。

人間は、虚構(ことば、神、規律など)構築によって他の人間と協力行為を可能にするのだと、歴史学者ハラリは論じる。そしてこの虚構構築による協力行為ゆえに、人間は力を獲得し、繁栄してきた。still humanが群れをなしてきた時、そこに新たなことばは生まれるのだろうか。still humanの世界に神はあるのだろうか。still humanにとって法律とはなんだろうか。人間が今まで作り上げてきたありとあらゆる虚構の別の可能性、別の進化発展のあり方が、still humanを通じて見られるかもしれない。

100年後のstill humanは一体どういったすがたをしているだろうか。

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未ュウ

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