見出し画像

わが愛しのケンブリッジ

自慢じゃないですが、という出だしで始まる時はだいたい自慢なんですが、実は私、博士号はケンブリッジで取得しました。

えぇ、イギリスが世界に誇る、あのケンブリッジ大学です。マジです。
それも、学費及び生活費全額支給の給付型奨学金を、とある国際機関から頂いて博士号を修めました。

そんなことでもないと、中流小市民の家庭出身の私が博士課程なんてできるはずがありません。それに私は当時すでに30台半ばでしたから、親からの援助なんぞ言語道断です。

私はイギリスでの修士課程は自費でやったので、それ以前に民間企業で働いて貯めたお金は、修士課程の学費と生活費に費やしてすっからかんの状態でした。

なので、私がケンブリッジで博士課程をできたのは、頭が良かったからと言うより、機会に恵まれたからだとつくづく思います。

そして、博士号取得後10年以上も立った日には、ケンブリッジ卒だろうが、オックスフォード卒だろうが、はっきり言って大して関係ありません。まぁケンブリッジ卒だから全くの馬鹿ではないのだろうな、と思ってもらえる程度の付加的要素にすぎません。

博士号取得後、こともあろうに学術界に足を踏み入れてしまったが最後、学者としての評価の基準は、ほぼ研究業績のみではかられると言っても過言ではありません。

ですから、今さら出身大学を自慢してたら、それこそアホかと言われます。

とは言え、やはり母校には思い入れがあります。そして、純粋に好きなんですよ、ケンブリッジ。私の第二の故郷はここだと思っています。

久しぶりのケンブリッジ訪問

今回、母校であるケンブリッジを訪れている理由は、ここで博士課程をしている学生の博論口頭試問の審査委員をつとめるためです。

べつに私、この分野の権威ってわけじゃ全然ないですが、たまたまこの学生、私がケンブリッジで博士号をしていた時の指導教授(イギリス人)についており、研究題目が私の研究分野にも近かったので、この指導教授からお呼びがかかったわけです。

ほかに誰かいなかったんですかぁ、まぁ、もと指導教授に便利使いしていただけるなんて光栄ですけどぉ、などという憎まれ口は叩かず、喜んで引き受けました。何といっても久しぶりのケンブリッジですから。

ケンブリッジのタウン・センターは新しいお店ができて、ちょっと様変わりしていましたが、カレッジ校舎が立ち並ぶ界隈は相変わらずの趣きです。というか、古い建物なんかは何世紀も変わらずそのままなんじゃないかと思います。

変わらずにいてくれるものがある、というのはいいなぁと、ふと思いました。

ケンブリッジで出会った、今は亡き友人

私は博士課程期間中、人格的にも学術的にも尊敬すべき友人ふたりに出会いましたが、その両方をすでに亡くしています。

一人は、スイス生まれの Jonael (ヨナエル)と言う学生です。私は、Jonael を含む他学部の博士課程学生4人と、一軒家をシェアしていました。

Jonael はケンブリッジで学士・修士をおさめた新進気鋭の哲学者で、当時25歳。博士課程では神学の研究をしていました。ずば抜けて聡明な人でしたが、同時にとても優しい人で、こんな人物が現実にいるんだなぁ、さすがはケンブリッジだ、と私は妙に感心していました。

ところが、Jonael は博士論文を完成した直後、口頭試問を待たずして、ロンドンからケンブリッジに向かう列車の転覆事故にあって命を落としました。

あまりにも突然の出来事で、私だけでなく他のハウス・メイトも含めて、かなりのショックであり、研究が手につかない時期がしばらくありました。

もう一人の友人は、当時、私と同じ教授について博士課程をしていた木村さんという日本人の男性です。木村さんも、私よりいくつか若かったと思います。

私たちの元指導教授はもうすぐ 70歳になりますが、この教授が日本人の博士課程学生をうけもったのは、後にも先にも木村さんと私の二人だけです。それも、奇しくも同時期に。

木村さんは、日本での大学(学部生)時代、アメリカでの交換留学中に南米へ旅行し、そこで交通事故にあって以来、車椅子生活をなさっていました。そういうハンデを乗り越えて、ケンブリッジの博士課程に入った人です。

体力的につらい時期もあったようですが、そんな重荷を感じさせず、いつも明るく前向きでした。精神的に強い人だったのだと思います。

私が博士課程も終わりに差し掛かった頃、私が、「ケンブリッジから離れたくない、学術職に興味はないし、ここに住めるんなら仕事なんてなんでもいい」、と言ったことがあります。

その時、木村さんから、馬鹿なことを言うなと一喝されました。

めったにもらえないような奨学金をもらって、博士論文も無事に完成しようとしているのに、その一切を無駄にする気か、と。

木村さん曰く、「いつまでもここでの学生生活に安住していてはいけない。持っている能力は、それにふさわしい分野で最大限にいかすべきだ」。
そう励ましてくれました。

指導教授からの信頼も厚かった木村さんですが、彼は博士号を取得後、日本に帰国する道を選ばれました。ですが、日本の大学で職を得てほどなくして、ある日突然、脳内出血で亡くなりました。

その当時、私はすでにイギリスの大学で講師として働き始めており、ケンブリッジ大学に残って研究を続けていた共通の友人から、木村さんの死を知らされました。

私は気が動転した状態で指導教授に連絡をとり(教授はすでにその訃報を知っていましたが)、教授のほうも、めったに取り乱さない私のうろたえぶりを心配して、落ち着くように、となだめられたのを覚えています。

ケンブリッジで学問以外のことも学んだ

ともに過ごした時間はごく短かいものでしたが、彼らから大事なことを学んだ気がします。

何よりも、一日一日を精一杯生きることの大切さです。私達は、自分がいつまで生きられるか知らないのですから。

研究者としてあんなに優秀で、前途有望な彼らが20代や30代で生涯を閉じて、彼らよりもずっと年上だった私がまだ生きている。そして、学者になんかならない、と公言してはばからなかった私が大学勤めをしている。

人生というのは不思議なものです。
今回、久しぶりにケンブリッジを訪れて、道半ばにして逝ってしまった彼らの分まで頑張らないといけないな、という思いを新たにしました。