あとがきと謝辞 <卒業研究>
ベルリン:時差8時間の卒業認定
3月1日、深夜。
今にもくっつかんばかりに震える上下の瞼を励ましながら、布団の中でスマホの画面が1:00になるのを待ちつづける。
薄桃色の画面をリロードして、ようやく「卒業(修了)」の文字が見えた。ごろんと仰向けに体勢を変えて、天井に向かって息をつく。ああよかった。単位、足りてた。ちゃんと報告ができる。。。。
連日の移動疲れでガチゴチになった身体に鞭を打ってmessenger を開こうとしたら、ログイン認証のためのパソコンが必要だと言われた。デジタルデトックスのため(本当は慣れない異国の地でmacを紛失する自信しかなかったため)、パソコンは持ってきていない。め、めんどくさい。ふつうにメールアドレスだけで認証させてくれ。
ひとまず今日中の連絡は諦め、スマホを放り投げて部屋の電気を消す。安堵と眠気でうつらうつらとする意識の中で、心の隅に追いやっていた後悔と憂鬱が押し寄せてきた。
これで、よかったんだろうか。
走馬灯さながら自身の学生生活を振り返りながら、いよいよ本当に眠りにおちた。
アントワープ:気温3度の石畳の上
ベルリン、アムステルダム、アントワープ、ブリュッセル、ブリュージュ、ヘント、プラハ、バルセロナ、カサブランカ、シャウエン、フェズ、メルズーが、ワルザザード、マラケシュ…
全然景色の異なる町を車窓から眺め、歩き、息を吸って吐く。ありあまる時間の贅沢さを堪能する。足腰が痛くなるほどたっぷりの移動時間は、見慣れない景色への新鮮な驚きと、見慣れていたはずの景色を思い出して考える心が行ったり来たりしていた。
「大学1年生の頃から、ちょこちょこ通っていて…。」
休学して楢葉に来た理由や経緯を尋ねられるたび、簡潔な答えを返せたためしがなかった。ただ単純な会話のきっかけとして聞いてくれているのだと頭では理解していながら、自分自身がどう答えたらいいのか分からないまま、5年に近い月日が流れようとしている。
まちづくり、コミュニティ、地域おこし、被災地、震災、復興。
事前情報のない相手に、楽に概要を伝えるにはきっと分かりやすいキーワードたち。
言葉そのものが悪いとか問題があるのでもない。でも、なんで?という質問に対する答えに一言で返すとしたら、私は選ばない言葉たち。
じゃあ、今の私は「なんで?」に答えを返すなら、どんな言葉を選ぶのだろう。
もくもく、もくもく。
美しい石畳の上に浮かぶ、タールきつめな副流煙にむせ込みながら、辛かった卒業研究を思い出していた。
東京: 卒業研究との日々
読んで字の如く、卒業研究は私にとって非常に辛いものとなった。
文字数がつらい、とかは一切なかった。8人の方にさせていただいたインタビューは、久々にお会いできたこと、普段では聞けなかった話を聞けたこと含めてとても楽しく充実したものだった。
問題は、そのあとだ。
諸々カットしても16万字にわたる膨大な量の文字起こしと、そこに宿る記憶を前に、私の足がすくんだ。文献を読み、テーマも決めた。それなのに、書いても書いても書いても、「違う」が繰り返される。
ぶくぶく、ぶくぶく。
ずっと水の中で溺れているような、胸の浅いところで息をしているような感覚だった。沢山聞かせてもらった言葉を前に、呆然とした。なぜ自分はこんなにも勉強してこなかったのかと、使い古された言葉が頭の中をぐるぐるする。何を書いたらいいのか、考えたらいいのか、全然わからない。図書館を梯子して読んだ本の山に囲まれ、ノートを広げながら泣く。別に誰にもなにも圧なんかかけられていないのに、こんな自分が書くことなんかないと頭を抱える。
「どうせ自分はそこにいないくせにね」「言うだけなら簡単だよね」「それって本当に意味あるの?」
という私の声が聞こえる。知ってるよ、とまた泣きながらメモを書く。正直後悔した。でも、誰のためでもなくこの町のことをテーマにしたいという思いが私の中にあることを、私自身が一番よく知っていた。
確かにわたしはそこにはいない。それでも私はもう、無関係ではない。
そうして半ば息切れしながら書き切った卒業研究は締め切りギリギリで、なんとか提出した。決して納得のいく内容ではない。それでも書くことをそのものを途中で投げ出さなかったのはせめてもの救いかもしれない。
所詮、学部生の卒論。
「これ渡さなきゃいけないのか…」と何度も憂鬱になりながら書いた卒論。
されど私にとっては重要なものとなった卒論。
自分の勉強不足に舌を噛みつづけたこの時間への後悔に、どう決着をつけるのか。少し長い目で、その方法は検討していきたいと思う。
ユーロシティ: 就職活動のさいご
そうして卒業研究をどうにか終え、他にもいろいろな事に追われたり悩んだりしてクタクタなまま、念願だった卒業旅行へ飛んだ。
総計25日間。振り返るには十分すぎる期間。
プラハからベルリンへの長距離列車の中で、記憶の引き出しを開けたり閉めたりして過ごす。するとふと、来月から働く会社での最終面接を思い出した。
社長を含めた取締役がずらりと並んだ会議室。
就活の定石らしきものにしたがうのなら、「インターンの〇〇を通じて得た△△力」的なことを答えるべきなのだろう。でも、私の口をついて出たのは、そんな言葉じゃなかった。
そこそこ淀みなく回答を重ねていた最終面接の場で、初めて時間をかけて出した答え。
それは、想定したよりもずっと、丁寧に耳を傾けてもらえた感覚があった。そして何より、自分の中で何かがストンと腑に落ちた音がした。
今思えば、口を動かしている間も心のどこかには「これで落とす会社なら行かなくて良いや」という思いがあった気もする。
翻せば、「この答えを受けて私を採るのなら、私はここである程度働けるな」と思えるほどに、いま自分の中で納得する答えだったということだ。
どうして忘れていたんだろう、そしてなぜ今思い出したのか。
もくもく考えながら、半年以上前に辿り着いていた答えを噛み締める。楢葉から贈ってもらった場所への愛着、というテーマはもはや、私にとっては楢葉だけのものではなくなっていた。
五年間をかけた学生生活の中で拾ってきた点が、少しずつ線になっていくような感覚に、不思議な気持ちでいる。(まだそれをどうしていくとかはさっぱりだけど)
ちゃんと卒業旅行になったなあ。
そんな感慨にふけっていたのも束の間。訪れた最後の国モロッコで、34度の暑さと人々のクセ、そして物凄い排気ガスに体力と精神力の全てを奪われて、感傷はたちまち消えた。
…あ、会社の最終面接の話とか怒られたらどうしよう。名前出てないから平気でしょうか。。。もしも見つけても見逃してください、人事の方。
ちょっと長い謝辞
楢葉をはじめとした、浜通りにおいて私と関わってくださった皆さま。
卒業研究の執筆や休学中に限らず、私の五年間におよぶ学生生活にあたり、本当に本当に本当に本当に本当に、お世話になりました。
特に何ができるわけでも、何か強い目的があるわけでもなく、ふらりと訪れた小娘を暖かく受け入れてくださり、心からの感謝を申し上げます。
行くたびに会ってくださる方も、何度かしかお会いしたことはなくともお世話になった方も、本当は一人一人にお伝えしたいところなのですが、数えていくとキリがないのでここでお礼の言葉として代えさせてください。
心の底から、、、ありがとうございました。
話す人が増えたり、同じ人と過ごす時間を重ねていくたび、私にとって楢葉町や浜通りという場所は「無関係」から遠ざかって、大切な場所になっていったように思います。
4月からは東京で働きますが、また遊びに行かせてください!
これからの皆さまの健康と幸せを、心よりお祈りしております。
2023年3月 中窪千乃
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浜通りの魚をいただきます