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July.4 非力美人男

 はてさて、やってしまいましたね。なるべく平静を装っても、小麦粉をキッチンの床にこぼしてしまった事実は変わらない。少しだけだったらまだいい。一袋。一袋丸々こぼしてしまった。
「どうしましょう。……勝手に袋に戻ったりしません?」
 現実逃避で床にこぼした小麦粉に話しかけてみた。……まぁ、どうにもなりませんよね。
 暇つぶしにケーキでも作ってみようと思ったのが運の尽きだった。あんなこと思わなければ手元が狂ってこんな惨状になる未来を回避できたのに。
 とりあえず、掃除機……で吸うのは確か良くなかったはず。ちりとり、なんてこの家にあるんですかね……。
 掃除道具が詰め込まれている納戸をダメ元で漁ってみれば、見つかった。ほうきもある。これで集めてから濡れ雑巾で拭き取ればなんとかなりますかね? ……まぁなんとかならないと困るのでやるしかないんですけど。
 ひとまず、ほうきとちりとりを駆使してかき集める。なんで僕がこんなことを……僕がこぼしたからですね。なんて自問自答をしつつできるだけ集めきった。もったいないが集めた小麦粉をゴミ箱に捨て、最後に濡れ雑巾で念入りに拭く。そこそこ時間はかかったが、どうにかこぼす前の状態に戻すことができた。
 後はあの人が帰ってくる前に証拠の小麦粉をゴミ集積所に持って行けばバレることはないだろう。まぁ何はともあれ。
「帰ってくる前に片付けられて良かった……」
「何の話だ?」
 思わず呟いた言葉に背後から反応され、振り返ると、いた。
「おや、黒滝さん帰っていたのですか?」
 いつも通り冷静に、にこやかに返答する。落ち着け僕。適当に誤魔化せばなんとかなるはずだ。多分。
「あぁ、今さっきな。で、何が片付けられて良かったんだ?」
「そうですか。音もなく家に入ってくるのは気味が悪いのでどうかと思いますけど」
「それは悪かった。で、なんか一生懸命拭いてたけど何してたんだ?」
「同居しているのですから『ただいま』くらい言うべきでは?」
「お前が返事しないのにか? で、このゴミ箱に大量の粉が捨てられてるけど何したんだ?」
 そう言いながら黒滝はゴミ箱を指差す。どうにか話を逸らそうとしても、この男は厄介なことにすぐ軌道修正する。
「……しつこい男は嫌われますよ」
「悪ぃな、しつこさが売りだからよ」
 微塵も悪いとは思っていない様子で言われ、思わず溜息をつく。やはり誤魔化すのは無理がありましたね……ならもう白状しますか。どうせ逃がしてはくれないでしょうし。
「小麦粉を床にこぼしたので片付けていただけですよ。何か問題でも?」
「急に開き直るじゃねぇか……まぁ問題はねぇよ。片付けたならな」
 こちらが態度を急変させたことに若干面食らってはいるが、許しを得ることができた。
「じゃあもういいですね。夕飯はテーブルの上に置いてあるので勝手に温めて食べてください。僕はもう寝ますおやすみなさい」
 そそくさとその場から去ろうとすれば「待て」と声をかけられる。仕方なく立ち止まり、彼の方を向く。
「問題はないと言ったじゃありませんか」
「いやまぁ言ったけどよ……全部ぶちまけたのか?」
「そうですけど?」
「……小麦粉のストック、あるか?」
「…………ないですね」
 ちょうど新品を開封してこぼしたのだ。ストックはない。
「心配しなくても明日ちゃんと買いに行きますよ」
 さすがに、というかどう考えても自分にしか非がないのでそう伝えると、
「じゃあ、一緒に行くか」
 などと提案された。「そうか、じゃあ頼んだ」というようなことを言われると思っていたので、少し意外である。
「……貴方、明日仕事は?」
「たまには休めって親父に言われたから休みだ」
「そうですか。……まぁ貴方がせっかく提案してくれたのですから付き合ってあげますよ」
「はいはいそりゃどーも。ま、明日早く起きろよ」
「……善処します。では、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
 話がまとまったので今度こそ立ち去る。
 珍しく誘ってくれましたし、今日ぐらいは早く寝てあげましょうかね。

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