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スパリゾートハワイアンズは心の故郷

フラとの出会いは震災の日の謝恩会だった

フラを習い始めてなんだかんだと6年目になる。初めて踊ったのはその数年前にさかのぼる。

それは娘たちの保育園の卒園式。その謝恩会は公民館だった。

近所の仕出し屋でお弁当を頼み、子どもたちの歌の披露や先生たちのご挨拶があり、わたしたち保護者も出し物を考えた。保護者の中にフラを習っている方がいて、その方の指導で別れをテーマにした曲を踊ったのだ。

その方のハーラウ(所属するグループ)のご協力で人数分のパウスカートやレイを借りて踊り切ったとき。フラにはほかにない開放感があることに気づいた。それに身振り手振りが手話のようでわかりやすく、気持ちも自然とこもる気がした。

元々モダンバレエやジャズダンス、フラメンコを習ったことのあるわたしは、フラを見て「激しさのない呑気な踊り」と思っていたが、そしてある一面その通りな曲も多いけれど(特にタヒチアンではないモダンフラ)、だからこそあるゆったり感が、癒しをくれる。

その日。2011年3月11日だった。

謝恩会をスタートしたのは一時頃。お昼をみんなで食べておしゃべりをしたりして、それぞれの出し物をしている途中で、あの大地震が起きた。

園児たちを机の下に入れながら、だんだんとクレッシェンドしていく揺れに、「もしかして世界が終わっちゃうかもしれない」と思った。我が子はちょうど見えないところにいて、保育園の真ん前に住んでいる子の顔が目の前にあった。

よその家の子の顔を見ながら公民館の下敷きになっちゃうのかな。薄情にもそう思いながら精一杯、大人力を発揮しながら「大丈夫、大丈夫」という顔をつくってみせたが、あまりにその子がじーっと見てくるので、泣きたくなった。

我が子の名前を呼んだらひとりは背後にいるのがわかったが、もうひとりがみつからない。(双子)部屋の外に行っちゃってたらどうしよう。それだけが心配だった。でも動けない。這っていっても進みそうにない、時化の海の上の船のような揺れだった。

公民館は前年秋に震度6までは大丈夫な耐震工事を終えたばかりだったけれど、揺れはどう考えても震度5はありそうだった。少なくとも4までは体験したことがあったけれども、それ以上で、しかも、長かった。

5分以上揺れてやっとおさまって、いつまでも心臓がバクバクしていた。

双子のもうひとりも、出入り口近くの机の下からみつかった。隠れ場所を探してぐるっと回って遠くの側に行っていたらしい。本当によかった。

揺れている間に、スマホを持っている人たちが「福島県沖が震源で、最大で震度6強らしい」と、言っていた。そのまますぐ帰ろうか、このまま待機するかという話になったが、とりあえず、夕方5時まではその部屋にいられるし、卒園式だけあってどの家庭も保護者と子どもが一緒にいるのだから、まずここにいるのが一番安全だろうということになった。

それでも小学生の兄弟がいる家がいくつかあったので、出し物だけしたら解散することになった。

そんな中で踊ったフラだったので、余計、心が癒されていくのを感じた。

帰り道、揺れる電信柱におののきながら帰り着いた近所の花屋で、店主が「津波が大変ね」と、声をかけてくれた。なんのことか。すぐに帰り着いてテレビをつけたら。

人々の暮らしが、延々と波に呑まれていくのが見えた。信じられない景色。

それからしばらくしてテレビでは「福島第一原発入口付近の放射線量は・・・」という報道をはじめた。これまでの地震では聞くことのなかった報道。なにかとてもいやな予感がした。

そして、原発事故は起きた。

福島県への差別なのか、当然の注意なのか。

例えばこれまでも、マーシャル沖での水爆実験の被ばくマグロへの恐怖が、人々の食生活に影を落としたこともあった。その前も、原爆を投下された広島や長崎の被爆者に対して差別があったことも知っていた。チェルノブイリの事故のときも、ヨーロッパ産のパスタや瓶詰食品を避ける暮らしもした。

しかし福島産の農作物は、食料自給率が高くない日本の食卓にとって、あまりにも身近で貴重な作物すぎた。米や果物、トマトやいちご。よく見るきゅうりやピーマンも、福島から来るものは沢山ある。それらをさけて暮らすことも困難だったろうが、はじめは工場や流通がうまくいっていないこともあいまって、わたしたちは北からではなく、西から食べ物を取り寄せる暮らしを続けた。

流通が復旧してもその意識はしばらく続き、学校給食は放射線量検査をされて提供されるようになった。

そういう注意は、それは差別なのか。

それとも内部被ばくをさける親としての当然の注意なのか。

わたしは次第に「測ったもので一定の基準以下なら、産地によらず食べる」という結論にたどりついた。しかしキノコ類と牛乳はこの時を境目に何年も摂らなくなった。放射線量が検出されやすい食物。そんなイメージになったし、実際産地によらず規定量を越えて検出されることもあった。

測定ボランティアの学習会に参加してみた。

実は今関東地方の農地や山林など、自然の中にある放射性物質のうち、そこそこ高い数値で検出されるものさえ、実は福島第一原発由来のものではなく、太平洋における水爆実験の影響がある可能性もあること。つまり半減期を迎えていないもので現存するものが沢山あることを知った。

そして、水爆実験の影響を受けた最大の年は、夫が生まれた年と同じ1963年だとも知った。わたしもその4年後に生まれているので、ミルクや離乳食でそれ相応の内部被ばくをしている可能性は高かった。

その学習会に参加してそのことを言うと、わたしより十歳以上若そうな女性が

「それで・・・夫さんは今、ご存命なんですか?」

と、聞いてきた。

わたしはそのときは「生きてますよ」と、当たり前に答えたが、よくよく考えたら妙な話だ。仮に放射性物質による内部被ばくをしても、発病のリスクが高くなることはあっても、必ず死に至るものではない。

(もちろん高線量を浴びた場合は話は別)

「正しく怖がる」という言葉を使われることがある。この言葉が是か非かわからないけれど、少なくともあからさまに間違えていることで怖がる必要なないと思う。学習会に行って「測って安全なら産地によらず食べよう」という基準に確信を持った。

そのダンサーの故郷は帰宅困難区域

フラガールの中には、故郷が帰宅困難区域に指定され、帰れない人もいる。彼女のことを追ったドキュメンタリー番組もあった。

その番組を見て、たすけになるなら福島に行きたいと思い、行ける場所があるならいわきだなと思った。幸いいわきにお友達がいることもあり、無料送迎バスが東京の各地から出ているサービスもたすけて、初めてハワイアンズに訪れた。

ホテルとしては震災後はあまり落ち着いた感じではなく、たぶん働く人もまだなじんでいなかったのではないかと思う。

ショップには書籍があって、読んでみると震災の当日、不安を抱えるお客さんたちにバイキング料理を出して元気づけたこと。混乱の中バスの手配で奔走したこと。試験的にバスを関東まで走らせて往復。安全を確認して関東の宿泊客のすべてを送ったこと。3.11より復旧間近の4.11の余震で、壊滅的被害にあったこと、などが書かれていた。

福島に行くならハワイアンズがいいよ

そこは夢の空間だ。夢の空間でありながら実は廃坑する炭鉱町の決死の復旧策だったり、今回の震災であったり、とても泥臭く人間臭い人間ドラマが根っこにあったりする。

何よりすごいなと思うのが、フラガールは「正社員」なのだ。

ショーガールを消耗品ではなく、働く人として位置付けて雇っているホテルや遊戯施設が、ほかにどれだけあるだろうか?夢の国とかいわれるところで最高級のサービスをしても、彼らは非正規雇用で搾取されまくっている。

わたしは町おこしに本気で取り組み続けるそのハワイアンズのありようにものすごく夢を感じる。

それからわたしもフラを習うようになり、一年に一度か二度は、必ず、ハワイアンズを訪れている。


自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。