まずは自己紹介からの

嶺王(みねお)かずきと申します。
またの名をカズキレオ、れおれお等で活動したりしていなかったりします。まあ「れお」か「かずき」のどちらかで憶えて頂ければ光栄です。

絵の話を書き溜めたくてnote始めました。創作のネタとかじゃなく、絵を描く上でのこととか、人生のこととか。ツイッターって、当たり前だけど140字しかないし、時間で流れてどっかいっちゃうし、その場その場の花火みたいなもんなんすよね。思考がめまぐるしく変わるオイラにはピッタリなんですが、そんなオイラにも書き留めておきたい事ってのが少しはあるもんで。

さて本題に入りましょう。

オイラは絵を描き始めて、だいたい丸7年か8年くらいです。何千枚も描いてます。なのにこんなヘタクソです、未だに。悲C~。才能もセンスもないし、別に絵を描くことで表現したいことも伝えたいこともない。なのにどうして、やめられないんだろう。

そもそもオイラはめちゃくちゃに熱しやすく冷めやすい性格なのだ。何をしても数日で飽きるタイプで、長続きした試しがない。それがどういうわけだろう、気づけばもう10年近く筆をとってるんですね。10年て。伝えたいことやテーマも無いのに10年近く、何千枚もよくまあ描いたな。

何度か書いたことがあるんですが、「絵を描く」ことって、オイラにとっては「うんこする」ことと同義なんですよ。汚くてすまない。「呼吸」とか「生命活動」とか言ってもいいんだけど、ちょっと香ばしくて恥ずかしいんだ。

絵ってね、無からは生み出せないんです。いやいや白い紙や画面にペンで1から描くじゃん、って思うけど、情報や興味、知的好奇心をくすぐる様々なものだとか、他者の作品(アニメ、ドラマ、映画、マンガ、音楽、なんでもいいよ)からの刺激だとか、感動、好き、怒り、苦しみ、悲しみ、何かしらそういったものを咀嚼というか噛み砕いて吸収しまして、いくつかのそれらを頭ん中で混ぜて自分の言葉に作り変えて吐き出す=クリエイトすることなんだと思う。

何も食っていなかったらうんこ出ないし、毎日快便なわけじゃないよね。食うものが合わなかったら下したり便秘になるし、腹痛になったりもする。スランプも、描きたいモチーフの移り変わりも、筆の乗るムラや波も、あって当たり前なんだ。機械じゃないんだから。何の話がしたかったんだ?

思い出したぞ、つまりね、色んなものを見たり読んだり聴いたり感じたり、そうして世界中に溢れる様々なものたちとコンタクトをとっていろいろ受け取ってると、体ん中に溜まってくるわけです、かけらが。で、それらが頭の中にポンと浮かんで、イメージとしてできあがる。こいつらが少々厄介で、なんかずっと脳内にチラつくんですよ。いっとき忘れても、ふとしたときに思い出してまたチラつく。困ったもんだ。

赤毛のアン、わかりますか? アンのとめどない空想みたいな感じで、あそこまでいきませんが、とにかくイメージが湧いて出てきりがないんです。それをうまいこと外に出せるのが「絵を描く」ことだったという。

ありがたいことにね、うんことか言ってますが、こんなオイラの絵を好いてくれるひとがこの世界にほんのひと握りいてくださるんです。そしてそして、更に嬉しいことによく言われるのが「れおさんの絵は本当に楽しんで描いているのが伝わる」「自分も描きたくなる」という言葉。言われて気づく。オイラは絵を描くのが楽しいのか。誰かになにか与えられる絵を描けているのか。というコト。

オイラはただでさえバカなのに、その上、思考することも放棄しています。だいたいいつもクルクルパーだと思ってください。なんかね、いつも無意識の行動(絵)に近いんですよ。描きながら、「これってもしかして、こういうことを描きたい?」「もしやこういう意味が込められてる?」って気づく。

描いてるのお前だろうが。

だから、能動的に他者へ何か与えようとか、絵になにか込めようとか、そういった考えを持つことが少ない。他人のことを考えて描くのは、頼まれた絵、誕生日の絵、贈る絵くらいかな。

無意識、思考せず描く絵って、つまりは無邪気さや無垢とも近しいなとか思うわけです。自分で言うとアレですが、こういう絵には私情とか妙な含みや毒なんかがまったく入らない、純粋な産物だと思ってる。

オイラは性格悪いし頭も悪いし社会的に見て超クソ底辺のゴミ人間だけど、純粋な部分みたいのがほんの少しでもあって、その部分が描く絵が誰かの心を動かしたりしてる、なんかそれってすごくうれしいことなんだなって。自分がゴミすぎてよく死にたくなったりするけど、不純物のない自分の絵だけは信じられて、支えになる。唯一自分の中で綺麗な部分で、宝物なんだと思う。

たまに、絵を描かない自分のことを想像します。
想像がつかねえ。だって絵を描かなかったら完全に無趣味ですよ。分岐の向こうの自分は今なにをしているのかまったくわからん。支えと出会えず自分の中の宝物にも気づけなかった自分。今頃死んでるかもな。おーこわ。

そのうちまた書きますが、分岐の選択を違えていたら今頃多分死んでるなってことがここ数年間だけでいくつもあって、己の直感力を褒めたいです。えらいぞ。

画材と、これまで描いてきた絵と、あわせてダンボール4箱がオイラの自信でありアイデンティティであり、すべてだ。これがあるからもっと前に進めるし、過去も怖くない。

長くなってしまったし終わらないので一旦切ろう。
改めてこんなふうに絵に対する心持ちというかを綴るなんてことは8年近く描いてきて初めてだけど、意外と色々思うことがあったりするもんなんだなあ。けっこう大事じゃん。ね。

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