【随想】結局のところXなのかTwitterなのか

ある時、Twitterが突然Xになってしまい、ツイートもポストになってしまった。
早く順応してXと呼び始めた人もいれば、いまだに断固としてTwitterと呼び続ける人もいる。
自分はというと今はXと呼んだりTwitterと呼んだりツイートと呼んだりポストと呼んだりしている。
別にそれほど拘りはない。

ただ、こういう事態は初めてなので、戸惑いがずっと続いていると言ったほうがいいかもしれない。
Twitterをイーロン・マスクが買収することに当時大して思うことはなかったが、まさかこんなことが起こると思わなかったのだ。

ある人は、名前を奪うことは最も野蛮な行為だと言ってこのことに怒りを表していた。
確かにそうかもしれないなぁ、と思う。
千尋が湯婆婆に名前を奪われて千にされたように、名前を変えることはある意味で支配の象徴であるように思う。
かつてTwitterの中身がそれほど劇的に変わったとは思わない(インプレゾンビはうざいけれども、何だかんだで多くの人が使い続けているのがその証左だろう)。
Twitterは相変わらずいつものTwitterだ。
しかし、名前が変わったことはやはり根本的な何かが変わってしまったことの現れじゃないかと思う。
ツイートはポストになった。
かつてのtweet(つぶやき)のコンセプトは失われてしまった。
画面に映る「ポストする」の文字列の違和感のために自分はこんな文章を書いている。

「野蛮」というのは、ある意味でイーロン・マスクにぴったりの言葉かもしれない。
彼は他人の住んでいた家に土足でずかずかと入り込んで、「ここは今日から俺のだから」と言い出した。
住人がみんなで使っているテレビに「これは今日から椅子という名前だ」と言った。
彼にはそうする権利がある。彼はお金を出してその家を買ったのだから。
でも、住人は驚いた。そんなことをする人はこれまでいなかったからだ。

昔、植民地支配をした人たちは異邦の原住民を野蛮人と呼んだらしい。
今では植民地支配が野蛮であることは誰でも知っている。
イーロン・マスクは野蛮なのだ。
これは、彼を批判して言うのではない。
彼はただ、そうなのだ。
自分が今も戸惑っているのは、その野蛮に対して戸惑っているのだと思う。
多くの人が戸惑い、怒りをあらわにしてすらいる。
けれども、彼のマッチョイズムに誰も抵抗できない。
その家の家主は彼だからだ。

結局のところXなのかTwitterなのか。
そんなタイトルで書き始めたが、別に自分はどっちでもいいのだ。
それは本音である。
でも、やはり戸惑っている。
そういえば有料化するとかいった話はどこにいったのだろう。
さすがに反発が強かったのだろうか。
これからこの家がどうなっていくのか、気になってはいる。


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