「春秋の名君」

宮城谷昌光のこの本は、昔知人のじいちゃんにプレゼントされた。彼は引退こそしていたがべらぼうな成功者だった。偶々大学の同窓であり、私の病気がきっかけで面倒を見てくれた方だ。

一時期、このじいちゃんと良く飲んだ。場所は毎度彼の馴染みの蕎麦屋だった。毎度蕎麦を食べず、毎度二人で日本酒を飲み過ぎ、毎度私の性根の悪さについて説教された。可愛がってくれた。

じいちゃんは和歌山出身であり、父親を自殺で亡くしている。父親の仕事は林業だった。彼自身は家業を継がず大学から上京し、別の仕事で成功を収めた。当時の私にはそんな成功より何より、じいちゃんの生い立ちが中上の「秋幸」と似ていることに驚いた。

「好きな作家なんです」と中上健次の話をした。じいちゃんは「中上なんか辛気臭いから読むな」と私に言った。そして後日「これを読め」と言い、私に渡したのが「春秋の名君」だ。

正直、中国史に疎い私にはきつかった。登場する歴史上の人物たちを誰一人知らない。そもそも春秋が何なんだかよく分かっていない。戴いた本は全く手をつけず、そのまま放り投げたままだった。


先月、たまたまこの本を本棚で見つけた。気が向き、パラパラめくってみると、本の後半は著者によるエッセイ集だった。当時は全く気づかなかった。小説同様堅実な文体のエッセイであり、素晴らしいユーモアも感じた。面白く、一息で読み切った。
あるエッセイの中の「野心がふくらむということは、世界がひろがるということでもある。それにつれて自己はますます小さくなるという認識を忘れてはなるまい」という部分は重要な示唆だ。「青空、ひとりきり」を聴いた後、このエッセイも読んでみるといい。


しかし、紹介したいのはこの本に収められている「内なる宝」というエッセイだ。概要はこうだ。

ある日、著者は知人から「ぶらぶらしていた人間が急に年商数億の社主になった」という話を聞く。著者は興味が湧き、「いったいなにがあったのか」と聞くと、その知人は「その人は、神のおつげがあった、というだけなのですよ」と言う。それを聞いた著者は「ふしぎなことがあるものだ」と思いながらも自身の体験から「神のおつげというのは本当だろう」と実感する。
「・・・どの分野でも成功をおさめた人は、かならずそのふしぎに遭遇しているはずであり、そのふしぎを活かしきったといってよいであろう。成功する人は、ふしぎを、なんのためらいもなく心身のなかに容れる。疑う人は失敗者である。」

続けて著者は「ここ掘れワンワン」の昔話を示す。正直者のじいさんの犬が掘り当てた大判小判が欲しく、意地悪なじいさんがその犬を借り自分の畑を掘らせてみてもガラクタばかりが出てきてしまう。
「だが、私は、犬がさぐりだしたものは、おなじものであるとおもっている。人によってそれが財宝となり、ガラクタにもなる。人生の宝を探しあてる目をもてるかどうか。その目は、知識や体験の豊富さとはまるで無関係に、ある日、突然、存在するものである。そして真の宝とは、外にはなく、自分という内にあることに気づくはずである。」

登場するのがじじいだらけで分かりづらいが、私の知人のじいちゃんはこのエッセイを読ませたかったのではないかと、随分経った今思う。

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