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実家周りをスナップしての気づき

実家にいったので親に子供を預けて近所を散歩しました。もう10年住んでないので不思議な気分。

なーんにもない田舎だけど、そんなところだからこそいい修行の場になるかなとスナップしてたんです。ただそれが結構いい気づきになりました。

バス停

なんていうか、山の写真撮ってたときもnoteに実際書いたんですが、被写体に対する自分の解像度って大事だろうなって漠然と考えていたんです。

そのほうがいい目線でモノを見れそうだし、撮る写真も深いものになりそうな気がする。

でも住んでたところを撮っててそういうことじゃなくて、写真を初めて手段っぽく扱えたことに気づきました。

どういうことかと言うと、山の写真撮ってたときは

いい光はどこだ

カッコいい岩とかないかな

この景色広角で撮ったらよさそうだぞ

これ全部、写真が目的なんですよね。写真が先ともいう。写真はその記録性の高さから何かを残すことに長けていますが、先に写真ありきって順序が微妙に変だよなぁと思うところは前からあったんですが、まぁでも写真好きだしそうなるか、みたいな。

ただ自分が解像度高いものを目の前にしてカメラを構えると『あ、これ撮っておきたいな』みたいな感情があるんですよね。

近所の神社

実家周りはその景色に対して、写真が後に来たんです。そしてそれがなんとも健全に感じました。いや別にいままでが不健全ではないんですけど。

微妙な精神性の話だから伝わりにくいかもしれないしむしろ普通はみんなこうなのかもしれないですが、僕は以前からこのnoteに書いてるように何撮りたいか分からないスタートみたいなとこあったし、機材好きな面も多分にあるので結構新鮮な気持ちでした。

で、みんなそんなに解像度の高い場所ばかり撮るわけじゃないから感性って大事なんだなと思いました。

目の前の何かから何かを感じとらないといい写真は残せないと思いました。

いやすげー当たり前のこといってるのは分かってるんですけどペッシよろしく、『言葉』でなく『心』で理解できた! ってやつです。プロシュートの兄貴!

そして作品を撮りたいという気持ちも芽生えました。例えば自分が写真集作るならこれらを残すべきだな、みたいな感じ。

換算75mmつけてたんでその手の撮影には若干不向きでもあったんですが、疎遠で視野が狭いのも自分の感情にあっててよかったかも。

ザ・ワールド

そんなこんなで、今後被写体に対する考え方がちょっと変わりそう。それがいいものか悪いものかみたいな話ではないんですけどね。

仮に頂いたら……フィルムを買うか写真の本を買うなどしてレビューします