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成功者か幸福者か、それが問題だ。

僕は成功という言葉が好きではない。
というか、僕の成功基準はとても低い。

僕は幸せであれば、それでいい。

先日、岸見先生のアドラー心理学のウェビナーに参加した。
「成功は量的なものであり、幸せは質的なものである」と説明していた。

よく分かる。

三木清さんの言葉を引用していた。

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福がなんであるかを理解し得なくなった」(人生論ノート)

これもよく分かる。

こうなれば成功です。
こうなれば幸福です。

このような指南書が溢れている。

それは、あなたが考えるものでしょ。
それは、みんなの統計をとった結果でしょ。

と、突っ込みたくなる自分がいる。

もちろん、指南書通りに生きて、その人が成功を手にして、
幸せになれば言うことはない。

そもそも成功の定義は人それぞれだ。
幸福の定義も人それぞれだ。

それを誰かに決めてもらおう。
教えてもらおうという時点で、幸せからは遠ざかっていく感じがする。

整えられた型の中で生きるのではなく、
その型を作っていくことが自分の人生を生きるということだと思う。

成功のための目標を決めたがる誰かと一緒に活動するときにはとても厄介だ。

僕は一緒にやるということで十分成功だと思ってしまう。
でも相手は売上はこれぐらいをあげようと言う。
その時点で僕の幸福感は遠ざかっていく。

成功の基準が違うのだ。
その目線合わせが大変で楽しさが奪われていく。
僕にとっては楽しさは幸福の大切な要素だ。
だからこのような人の成功に合わせて一緒に活動してしまうと
幸福からは遠ざかっていく感覚を覚えるのだ。

もちろん活動をした結果、売上が上がって利益が分配されれば嬉しいし
達成感を味わうことができる。
でも僕にとっては、それはプラスアルファの部分だ。

そもそもその活動をやる意味があるのか、
その活動そのものが僕に楽しさをもたらしてくれて、
やりがいを感じるものなのかが大事なのだ。

幸福度テストみたいなものがある。
科学的にあなたの現在の幸福度は70点です、みたいな。
その尺度の根拠は統計的に幸福な人の傾向をスコアリングしていくようなものだ。

余計なお世話だ、と思う。

70点のスコアを与えられたら、100点取れるように幸せになろう
という動機付けがなされる人もいるだろう。

そのように考え始めた時点で幸せでないと思う。

理由は2つ。

1つは誰かが作った型の中に幸せを見出そうとするから。
もう1つは上を見れば現状の幸福に気づけなくなるから。

冒頭の岸見先生の言葉にあるように、幸福は質的なものだと思う。
そしてその質感は自分にしか分からないものだと思う。

どんな状態が自分にとって幸せなのか。

まずはそのことを自分自身の体と心で感じることがとっても大事だと思う。

幸せの形なんて人それぞれなのだから。

こうすれば幸せですよと言われた方向に行ってみたところで、
幸せめいたものを感じることで幸せを感じているつもりになることを
幸せだと勘違いしてしまわないようにしたいものだ。

それは誰かの幸せで、あなたの幸せではないかもしれない。

スコアリングして今の自分と100点の理想状態にギャップがあれば、
もっと上を目指そうと感じるでしょう。
理想の状態をつくるために改善する努力をすることは素晴らしいことだと思う。

その努力を楽しめる限りにおいては。
少なくともやり甲斐を感じられる限りにおいては。

100点に固執して、現状を耐え凌ぐような努力なら、
本当にその100点の状態が自分の理想なのか問い直してみた方がいい。

100点に固執すればするほど、今ある幸福に気づきにくくなってしまい、
現在の価値は目減りしていってしまう。
今を生きる我が人生が台無しだ。

朝起きることができて、
朝ごはんを食べることができて、
朝日を浴びることができる。

幸せだよね。

1日の終わりまでにはいろんなことが起こって、様々な感情を経験する。
嬉しい気持ちになったり嫌な気持ちになったりする。

それは幸せな時間の中で起こっていることで、
また明日になれば、目覚める時が来る。
そうすればまた幸せを感じることができる。

そうやってシンプルに暮らしていくことが僕にとっての幸せだ。

人と比べてしまうと息苦しいよ。もっと楽に生きられるよ。


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