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一番子供の事を思っている親という存在が、子供にとって一番のストレスになっている事の皮肉さ


先日母と電話で話している時、ひょんな事から「私昔よく引っ叩かれたよね」と言ったところ、なんと母は全く覚えていない、との事。「え???覚えてないの?10回以上は叩かれていますけど」っと言ったけれど全く覚えていない。
私が父に何度も叩かれたことも大して覚えていない様子で、私は驚いてしまった。
私は何十年も悩み、心療内科にも行き、試行錯誤してやっと父親を許せ、普通の状態まできたのだ。

電話を切ったあと、もしかして言いすぎちゃったかな、傷つけちゃったかな、と不安になったり、でもフォローもしたし、明るく話したし、なんて母親に気遣っている自分がいた。
 それから10分後くらいに、喉に何か詰まるものを突然感じ、唾を飲み込むのが痛くなった。喉の皮がめくれたみたいで、とにかく痛い。この症状は昔よくなった。なんだ急に!と思って、ネットで調べてみると、ヒステリー球という症状らしい。自律神経が原因らしいが、こんなにあからさまに出るものなんだ、と驚いた。私にとってこの事は、よっぽどのストレスだったのだと改めて感じた。



 私は子供の頃、口が達者で「子供のくせにその口の利き方は何だ⁈」という理由でよく叩かれた。怒りで叩かれる以外は普通の家庭で、いわゆる家庭内暴力がはびっこていた家庭ではない。多分昭和の時代にはよくある「家庭内のしつけ」という名の暴力だったと思う。

時代ってある。本当にそう思う。いつの時代も自分の価値観で行動できる人はいるけれど、普通の人は世間の常識に流される。


昭和の常識

①親は子供より偉い。
②親は子をしつけるもの。
③しつけは叩いてもいい。(そういえば昔NHKでやっていた「大草原の小さな家」でも、お父さんが躾の為に子供が悪いことをすると、鞭で打ってたシーンがあった。あれも今では放送できないだろうなあ)

昭和の常識は令和の非常識だ。



叩かれて育った自分が親になり、自分の子供を叩かずに育てる事のむずかしさは、子供が小さい頃によく感じた事だ。
叩いたって子供の心に傷を負わせるだけで、何もならない。さらに自分の怒りさえも発散できず、叩いてしまった事の自責の念でもっと苦しむことになる。

夫は子供の頃、一回ベランダに出された事があると話していたが、それ以外は叩かれたこともなく育った。そのせいなのか、もともと忍耐力があるせいか、子育てがとても上手だ。

子育って、きっと親との関係に問題がない人にとっては、自分が育てられたように育てればいいので容易い事なんだろうなあ、と夫を見ていると思う。


何が私と違うんだろう。考えてみた。
そこには子供に対する絶対的価値観の違いがある気がする。

①子供を産んだ。その子供がいてくれるだけで嬉しいという感謝の念。
②生んであげたのに、育ててやったのに、という恩着せの念。

もちろんどちらも多少はあるだろうが、やはり、感謝の念で育てている人の子育ては本当に明るく穏やかだ。決して成績がいい子に育つわけではないが、その子の能力が発揮されるような将来になると思う。(武田双雲さんのように)

「生んでもらった親には感謝しなければいけない」こんな言葉をどこかで聞く度に「生んでほしいなんて頼んでない」と私は思っていた。
そんな私も親になり、子供目線の親になるかと思いきや、
ご飯も作ってあげたのに、塾代もさんざんかけてやったのに、などと思ってしまう自分が本当に情けない。。。

これは幸せ病なのかもしれないな、と思った。きっと子供が大きな病気にでもなればすぐに気が付く。「ああこの子がいてくれるだけで自分は幸せだったんだ」と。

ならば、今気が付こう。

母親は愛情だけ与えればいいんだ。
愛情のあるご飯、愛情のある掃除、愛情のある言葉がけ。


言うは易し行うは難し。


それでも本質に気が付けてよかった。

一番大切に想っている親(自分)なのに、子供の一番のストレスになんか絶対になりたくない。


叩いて育てた両親は、今は私が存在している事だけで喜んでいる。


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