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自己憐憫という名の麻薬

幼稚園くらいの頃から、親に怒られたり、わかってもらえなかったり、悲しい、悔しい思いをすると、私はよく自分を殺す想像をしていた。

今でもよく覚えている。何かあるとベットで布団をかぶってわんわん泣き、泣きながらよく想像したものだ。

自分の腕をまな板の上にドンと乗せ、出刃包丁を勢いよく下すのだ。
私の魂はスーと身体から出ていき、天井の上からみんなを見ている。
みんなが私を失って泣いている姿を見て、愛情を感じ、自分がかわいそうだと思い、私も泣いているうちにいつの間にか寝てしまうのだ。


この方法はいつしか癖になり、自分を立ち直らせることのできる唯一の方法となって確立した。その後思春期に過食嘔吐が始まるのだが、その際も、常に最後は一緒だった。

自分自身で編み出した、自分を立ち直らせる最も安易な方法。
大人がお酒で紛らわすのと同じくらい安易だ。

そして随分後に、それは「自己憐憫」と言って、最悪な立ち直り方だと知ることになる。



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久しぶりにすごく嫌なことが起きた。そして夫とも少し口論になった。
これ以上口喧嘩をしない方がいい、そうとっさに思って、すぐにお風呂に入った。
シャワーに紛れて泣いて泣いて、、、そう、またあの想像が出てきた。

自己憐憫。まだあいつはいるのか。。。少しがっかりしたが、私の脳は、私ってなんて可哀そうなんだ!生まれてこなければよかったのに!みんな私が死んだら泣くだろうな。もっと大切にするんだったと後悔するだろうな。と始める。

ああ、すごい勢いだ!昔と何も変わってない。そう思い、しかし今回は今まで学んだ色々なことを試してみた。


身体のどこにどんな種類の辛さがあるんだろう。

まずはこれを観察してみる。
喉だ。赤くてとげとげした丸いものが喉にある(ような気がする)。悔しさは喉に宿る。自分の首を絞めたくなる、あの感じ。
私悔しいんだ。気が付いた。悔しいよね。悔しいよね。その感情を観察し寄り添ってみた。

すると、次はみぞおちだ。みぞおちには白く大きな半紙のように薄い紙があり、それが左右に引っ張られ、真っ二つに張り裂けそうな感じがする。ああ痛い。みぞおちは悲しみが宿る場所だ。
悲しみは、悔しさ、怒りに扮装して出てくることがあり、たいてい、感情を感じ切ると最後はみぞおちに行き着く。

悲しいね。悲しいね。寂しいよね。悲しいね。何度も自分のこの感情に寄り添ってみた。その張り裂けそうな白く薄い半紙を観察し、しっかり味わい、感じてみた。自己憐憫の、私って可哀そう!という感情はどんどん影を潜めていった。


すると今度は、すごい勢いで言葉がボンボン降ってきた。
「この問題は、他人の問題であって自分の問題ではないでしょ。自分と切り離して考えなきゃダメじゃない」
「人は人。自分は自分。自分の機嫌を取るのは自分だけでしょ」
「過去を後悔してどうするの?今から何かできることがある??意味ないじゃない」
「さんざん考えてもう結論は出てるじゃない」
「一体どうしてほしいのよ」

ザ 正論のオンパレード


あ~、正論ってこうやって人を傷つけるんだ。私の中で、つり上がった眼鏡をかけた厳しいお局様風の正論さんは、容赦なく悲しんでいる私にたたみかける。

自己憐憫+正論=自己否定だ

自己否定して落ち着く。こんな事を本当に長いことやっていた。誰に言われたわけでもなく、自分で編み出してそこに依存して、負のループを作ってしまった。きっともともとの性格のせいなんだろう。 


ふと昨日、長女の浪人の話の際、私がとうとう切れて、正論をどや顔で振りかざしていた事を思い出した。

長女はそれを聞いて怒っていた。きっとその下には悲しみがあったのだろう。

私は自分がこんなに苦しんだ事を人にやってるんだ、とはっとした。

「もうこの際、正論=悪 と公式を作って脳にインプットした方がいいんじゃない?」
白黒はっきりさせたい完璧主義な私の頭がそう言った。

正論って、雑誌や本など、第三者ならば言ってもいいけれど、近ければ近い存在ほど言わない方がいい事なのかもしれない。

お局風の正論さんが私の身体にやってきて、胸がむかむかしているとき、「いやだね。正論言われて嫌だったね。悲しいよね。悔しいよね」と自分を何度も慰めてみた。自己憐憫にならないように気を付けながら感情に寄り添った。


正論さんはどこかへ消えていった。


そして少し落ち着いている自分に気がついた。



少しは自分の感情をコントロールできるようになっているのかもしれない。



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