ペットロスの妄想的考察
ペットロスは本当につらい。
長寿家系ゆえ、人間の死にもあまり免疫はない方だけど
実家で過去6匹を見送った経験から、このつらさはどうにかならないかとよく考える。
どんなに写真を眺めても動画を眺めても、求めるのは触れ合いなのだ。
生きていたんだね!! と思って目が覚めて、夢だったのかと涙することも。
どうしてこんなにつらいのだろう?
以下オカルト的要素を孕む一考察。
所詮一個人の戯言なので、そこをご承知おきいただきたい。
白猫が初入院した時のこと。
振り返ればたった4日の入院だったが、あの時は本気で夜誰もいない動物病院で死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。
ちゃんと愛情をかけてやってなかったと後悔した。
もっとそばにいてやりたかった、大事にしてやりたかった、諸々。
(夫には「まだ死んでないから」と言われた)
その入院ペットロス時、明確に一つのイメージがあった。
私がいつも座るダイニングチェアの上で、膝に抱いて、抱きしめてやりたいと。
もし生きて帰ってきてくれたら、ここで抱きしめるのに、と。
その感覚は、かつて愛する実家の猫達が逝ってしまった後に感じた、触れ合いたいという生々しいペットロス感覚そのものだった。
我が家にはソファーもあるし、ベッドで寝る時は黒猫も白猫も私と一緒に寝る。
いろんな場面が浮かんでも良いのに、私に浮かぶイメージは、ダイニングチェアのそれだけだった。
そして4日後、数値が劇的に良くなってからの退院。
帰宅直後、白猫が走って行ったのはダイニングチェアだった。
私は全ての願いが叶った思いで白猫を抱きしめる。白猫もかつてないほど激しく素直に甘えてくれる。白猫が帰ってきてくれてからというものの、ダイニングチェアに私が座ると必ずと言っていいほどまっしぐらに膝に乗る日が、現在でも続いている。来ない日は体調が悪いからすぐわかる。
入院前は、多分そんなに日参してなかった。ツンデレなところもあったし、行こうとしたら既に私の膝を黒猫に占領されてたのかもしれない。
しかし思うさまダイニングチェアに座りながら、白猫を抱きしめ、白猫になめられ、ふと思ったのだ。
白猫も、入院しながら、ここで私の膝に乗って甘えたかったのではないか。
本当は甘ったれだったのに、ある時期から妙にこじらせ、ちょっと距離を置き、私が出張前だけ慌てて甘えてくる生活を、後悔したのではないか?
そう感じるくらいの態度の変わりっぷりだった。
生き方を正直に変えたことが、治癒に繋がったような気も、しなくはない。
そして入院中。
いうなれば、念? みたいなものを、私も白猫もお互い受信し、それが物理的に成就できないから、引き裂かれるようなつらさを感じたのではないか。
その時感じたのだ。
過去の、つらかったペットロスは、亡くなってしまった猫達もまた、霊的にまだ存在していて、抱きしめられたいと感じていたのではないかと。
実家の猫達の死で、比較的ロスが軽かったのは、私が家を出てから数年経った猫だ。
一緒に暮らしてた時はめろめろだったけれど、案外離れてしまえばこんなものなのか? と不思議に思った。愛していたのに。
それは、猫の方がもう、私を忘れていたからではないか。
猫の霊的な存在が、私を求めていなかったからではないかと。
ペットロスに苦しむ人達は、亡くなったその動物にまだ、触れ合いを求められているのかもしれない。それだけ愛し合う関係だったのだ。きっと。
そして癒し方はまだわからない。
動物にも成仏の概念、あるのだろうか。
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