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【無料】養魚秘録『海を拓く安戸池』(15)~防波堤~

野網 和三郎 著

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(15)~防波堤~

 室戸台風のもたらした惨禍は、どんな犠牲を払うとも、漁船整理をすることが、事業を成功に導くためへの最大条件という結論から、その第一段階として、東南、両水道を結ぶ、二百メートルの自然砂堤を堅牢な防波堤に強化せねばならなくなったのである。

防波堤で保護された安戸池

 平常時においても大潮時の満潮時には、二、三カ所は外洋とチャブチャブになるほど低く、まして室戸台風時は、全く外洋と一つになってしまったのである。

 幸い、室戸台風直後に、この防波堤築造については、土木匡救事業法が適用される運びになり、この工事には補助金が出ることになって着工され、自己負担額が僅少額で大いに助かったのである。ここでその時点以降についての状況を一筆しておくが……どんな設計であったかは、今から考えれば弱小すぎるものであり、その中身は自然の砂礫を、二、三十キロ程度の石垣積みで肩巾も狭かったためか、五年も経った頃から地盤が引けあるいはところどころ積み石が抜けだすといったことで、更に十五年に至り改築され、石も七、八十キロ以上、幅も高さもこれより数倍以上、強度のものにしたのであった。

 なお終戦後になり南海の大震災などの影響もあってか、年を経るに伴い沈下もみられ、抜け石も認められるところから、昭和三十七年度に至り、この堤防を総ぐるみコンクリートで包んで安全度を高め、現在に至るも少しの損傷も見られなくなったのである。一方東水門から丸山鼻に至る北側自然堤は、着業当初は、幅も満潮時においても三十メートル以上もあったのであるが、土木工事に使うグリ石などが無法に採取され、砂礫が波に洗われ飛散する現象が積み重なり、海水の侵蝕作用の結果、危険となり、昭和二十九年に至り現在のものに補強されたのである。

 なお内陸側については、民家から田地側についての護岸は、昔そのままに、無造作な小さい石垣積みであったため、室戸台風により海水が田地に流入し、農家の被害も夥しく、これが補強工事については、町を通じ、県を通じ陳情を重ねていたので、これも追々ではあったが、山本町長、遠藤県議などの努力も加わって現在の如き立派な護岸が出来上ったのである。

 山側についても、着業当時には、全然道路がなかったので、干潮時には砂浜を通り、満潮時には山越えをしなければならなかったのである。昭和五年に至り営林署関係の与治山一帯が、昭和四年大火に見舞われたため、営林署の事業として初めて二メートル余の林道が安戸池よりの海岸につけられたが、それも田地、田畑側と同様に県営に移管され、海岸線として白烏、津田に通ずる県道として、現在も多額の予算が、注ぎ込まれている現状である。

養魚秘録『海を拓く安戸池』(15)~防波堤~〈了〉

養魚秘録『海を拓く安戸池』(16)


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