養魚秘録『海を拓く安戸池』(33)~種苗~
野網 和三郎 著
(33)~種苗~
ハマチの種苗について、昭和初年より今日に至る歴史をふり返ってみると、試験養魚の段階では、大謀にて漁獲されるものをこれに当てたが、こと事業ともなれば、数量を纒めねばならず、志摩の学校当時に見覚ていたのを思い出し、浜島を探り当てたので、ここを第一の種場として定め昭和七、八年頃より高知県甲浦を基地として、小形双手回しの施網で藻ジャコ採捕を始めてより、この両基地を種場として、稚魚の確保をしてきたので、今日のような競合もなくごく平隠裡に、必要量が賄えたのである。
それがハマチの価格が、貫当り千円の大台を上下する昭和三十一、二年頃ともなれば、これは事業として成り立つという、目星がつく。この現象は戦後漁場の乱獲による荒廃から、漁獲の激減、特に成長に三年以上を要する高級魚は京阪神市場から、次第に姿をなくして行ったことによって、その代替え魚をこのハマチにむけて来た結果、千円の大台にのることが出来たので、香川では真珠島養魚の小松氏、兵庫では日野氏の淡路養魚と発足が見られる段階となるに随い、化繊漁網は、腐蝕しないというので、区画網による養魚が可能視される。それでは小割網の養魚も可能ということから、家内養魚、漁船漁業の副業として養魚が行われる。これが西日本一帯に拡がるにつれ、種魚の不足という不安に悩まされるようになったが、過去において最初養魚を始めようとする者は、等しく先輩のやっている轍を必らず踏襲するもので、種魚といえば浜島、甲浦と押しよせてくる。それでも入手が出来る間は、価格の高騰を来たすようになっても、漁場を開拓しよう、というものは極く稀で、よく考えれば自分の養魚しようとしている海域にも、モジャコが生産されるということに、気付かないものが非常に多いということであった。それが次第に眼がさめてくると、幹線暖流の洗う海域ではどこでも漁期が来れば、流れ藻に着生している事実をみんなが認めることによって稚魚の、不足というものは、次第に解消されつつあるのは、よろこばしいことで、しかし天候、潮流異変などの自然現象による不漁は、種苗を天然産に依存している現状では、不漁の場合もあろう。また生産が遅れることもあろう。