私にとっての(シン・)エヴァ

================DISCLAIMER===============

本稿はネタバレを含みます。

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はじめに

以下の記録は、僕が鑑賞後から考えたことをほとんど時系列そのままに記述したものです。鑑賞の余韻の中、僕が映画の内容を想起しながら、「僕にとっての(シン・)エヴァンゲリオン」をまとめ、結論づけていくプロセスを記述します。決して、シンエヴァ考察として胸を張れるものではないですが、この記事に書いた僕の精神のプロセスが、ほかの誰かがシンエヴァを自分なりに意味づけようとするとき、その整理する作業の一助となれば幸いです。

僕にとってのエヴァンゲリオンは、新劇場版から始まりました。たしか中学生のときからだったと思います。確か見たのはテレビのロードショーだったかな。序・破・Qを順に見ていったあと、アニメ版、そして旧劇場版という順番に見ていきました。自分もまた内向的な性格だったので、シンジの迷いと苦しみに随分感情移入したものです。

シンエヴァは本当に長い間待ちわびました。その間に僕も成人し、自分の考え方にもだんだんと折り合いがついてきていました。

Phase.1 断片的想起

見た直後の感覚を忘れまいと、眠気の中で必死に書き留めていました。まだ感想が曖昧で、基本的な「言いたいこと」は胸中にあっても、手がかりがあまりつかめていません。非常に散逸しています。

言いたいことありすぎる

やっぱゲンドウさんチョロすぎた


すごくいい作品ではあった

完全な総覧と俯瞰が与えられない中でしんじくんは能動的に行動し、物事を決めておりました。

ただこう散逸の感はある


じゃっかんね

アクションシーンは非常に面白かった

マリさんが半分メタっぽい立ち位置

「ストーリー好き」なことが強調され、読み手として、かつ登場人物として、ともに展開の荒波を追う感じ。

最後のシーンでシンジくんと一緒に走っていくシーンが、シンジくんがまりさんのような何らかのメタ的到達点に達したことを示唆するように感じられる 

僕たちはしんじくんと融合して劇場を出ていくのか、って思った


げんどうさんの見せ場は、相対するシンジくんに対して「力や恐怖は条件ではない」と言い放つ点かな

しんじくんは受動的に内省するのではなく、あくまで周囲から断片的きっかけを得て、それを手がかりに意思を構築し、意志の結果として対決と対話をするという展開

非常に能動的なことがわかる

従来ストーリーテラーだったカヲルはあくまでエゴを強調された形で出てくる

ストーリーテラー役が不在の、コミュニケーションと能動性が主体になっている展開

Phase.2 混迷と模索

いくつかの考察記事を読み、「旧劇ほどのインパクトはない」などの主張を目にします。自分の中のエヴァンゲリオンを整理するだけでなく、この作品の意義みたいなものを提出する必要にも駆られ、自分の言いたいことがちょっとわからなくなっています。

シンジの復活は、アヤナミレイの好意と、死に様によって与えられる

シンジの、自分のやったことに対する絶望は、旧劇のような完全な総合と俯瞰の機会を待たずして回復をみる 

そこに旧劇の「俯瞰と総合の救済性」はない。他者との関わりの中から、時間の経過を通じて、萌え出るように得られたもの、それ自身が彼内部での俯瞰的(物事に一旦距離を置く、客観的)態度であり、それを足場に彼は絶望への悲嘆と決別して、ゲンドウとの対決、他者への思いやりへと方向づけられる。

このへんの話は、僕の前日の旧劇場版再視聴の感想を踏まえています。このツイートです。

この物語では、俯瞰や総合の完全な機会は与えられないし、実際主題でもない。シンジの対話の決意もまた、ピンク髪の搭乗員の反対を受ける。

Phase.3 到達

随分考え込んでみて、ついに納得のいく「自分なりのシン・エヴァンゲリオン」を明確化することに成功します。

しかし、俯瞰や総合を断念し、絶望と悲嘆のさなか、内向的なシンジが対話へと方向づけられ、内面的解決ではなく、他者とのコミュニケーションの中で事態の収集を図る、という、エヴァ全体を貫く「シンジの内向性」という主題がここで解決されるのだと感じられる。

内面的思想的で独りよがりな、旧劇としての解決は、言ってしまえばQですでに失敗していた。渚カヲルは死んだ。俯瞰的解決は失敗したのだ。 

だからこそ最後の展開は急ぎ足で散逸したようにも感じられる。しかしそれは、シンジの克服するものが自己の内向性であって、それを乗り越えて歩んでいくさまをここで描かねばならないのだから、多様な人が現れ、シンジがその対話に臨む様を示すことは、本当の意味での結末として妥当なものとして感じられる。 

我々は自らの内向性を克服し、自分がやってきたことを、自らの内側ではなく、他者との関わりの中で真正に引き受けるのだ、というメッセージだったのだ 

そこに、アニメから続くエヴァとしての、一体感のある結末が理解できる。

だからこそエヴァはもういらない
碇ゲンドウと碇シンジの内向性の象徴であったエヴァンゲリオンは、ついに役目を終えたのだ。

自らのやってきたことは自分が落とし前をつける。しかしそれは思想的解決によってではなく、常に外に向かって、他者との関わりの最中で解決していくことなのだ

最後のシーンでのマリとの会話を見れば、もはや誰も彼を内向的な人間だと言うことはできまい

我々もまた、エヴァと別れを告げ、歩いていかねばならないのだ。

それが、「シン・エヴァを観た」ということなのだと思う

Phase.4 反芻と追記

記事にしてみて、改めて感じたことを書きます

「完全な俯瞰と総合の機会はない」みたいな話の仕方をしたが、それでもゴルゴダオブジェクトでは俯瞰と総合の機会があったし、シンジ以外の登場人物は内省をしたし、そのプロセスには必ずしもシンジは登場しない。

つまり、「『思想的解決ではなく』コミュニケーションへと方向づけられた」というのは不正確な記述で、実際には、他人の苦悩に向き合い、解決の糸口も見出していこうという態度なわけで、「『自分のための内省ではなく、』他人にも(救済的な?)内省の機会をもたらそう」という意味での向き合い方だったのではないか、と思い至った。対話はそのきっかけ、表層的行為にすぎない。その対話の先に他人の、その人にとって有益な内省があることをみていたはずで、シンジがゲンドウとの対決に向かったのはやはりそれがあったからではないだろうか。

そう考えてみると、より一層旧劇との連続感もあり、さらに合点のいくものとなった。登場人物が彼ら自身を振り返り、俯瞰し、向き合い方を考え直す機会のために、シンジは向かっていったのだ。その機会の創出可能性への気付き、それが「初期ロット」がシンジに与えたものだったのではないだろうか。もちろんそれは、前述のような対話をも含んでいる。

ところで、ゲンドウさんは、暴力は解決の条件ではないと言って、対話的?構造を導入していた。そこには、救済されるべき人間の幼稚さだけではなく、やはり父親としての指導性が発揮されていたように思う。

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