レビュー:ポール・ブルーム『反共感論』(P. Bloom, Against Empathy)

【以下は原書を読んだときにAmazonに書いたレビューの転載です。邦訳は未読です。】

多くの人は「良い人間であるためには他者への共感を持つことが重要だ」と言う。しかし本書の著者ポール・ブルームは、共感はむしろ有害であると強く断言する。一見、驚くべき主張だが、読み進めると最初の印象ほど突飛なことを言っている訳ではないことが分かる。この主張が突飛に思える原因の一つは、「共感」という語の多義性による。この語は「他者の感じていることを感じること」、「他者の気持ちを理解すること」、「他者を気遣うこと」、「他者に親切にすること」、「他者を愛すること」など、様々な意味で使われる。著者が反対するのは最初の意味での共感、すなわち「他者の感じていることを感じること」、「他者と同じ気持ちになること」である。その他の意味での共感、すなわち「他人の気持ちを理解すること」などについてはブルームもその重要性・必要性を認めている。また狭い意味での共感を完全に捨てるべきだと主張しているわけではなく、共感が個人の経験を豊かにすること、親密な人間同士の関係において重要な働きをすることを認めている。しかし道徳的に良い判断や行動のためには共感に頼ることは間違いであり、私たちは理性に頼らなければならない、とブルームは言う。この点でブルームはジョシュア・グリーンに近いが彼よりも徹底した合理主義者である(グリーンは集団内での道徳的課題の解決のためには理性よりも感情の方が有効であると考えている)。

では狭い意味での共感(以下では単に共感と言う)はなぜ有害なのか。一言で言えばそれが理性的な思考を妨げるからである。共感はいま目の前にいる相手の感情を過大に評価させ、その結果として大局的・統計的な思考を妨げるというバイアスを持っている。ブルームは共感を特定の限られた箇所にだけ光を当てるスポットライトに例える。共感によって動機づけられている人間は、少数の人間、身近な人間、自分と同じ集団に属する人間を不当にひいきする一方、親しくない人間、異なる集団に属する人間、離れたところにいる人間の利害を勘定の外に置いてしまう。共感は目立った事件に対して関心を向かわせる一方で、日常的に起こっている事件には関心を向かわせない。また親や医師といった立場の人間が、子供や患者の苦しみに過度に共感することは、冷静で適切な行動を取りにくくする。さらに共感はそれを持つ人間を疲弊させることににもなる。

共感が時として道徳的な行動の強い動機になるという反論に対してブルームは、実際には合理的な判断や親切心で十分、あるいはその方がより効果的であって、相手と同じ気持ちになることは必要はないという。彼はそこで、自分の腎臓の一方を見知らぬ他人に提供した人物を例に挙げる(もともとピーター・シンガーの本で紹介されているらしい)。その人物は腎臓病を患う他者に共感したから提供を決意したわけではなかった。腎臓提供による死亡のリスクは400分の1である。一方、腎臓提供を待つ患者は提供されなければ確実に死ぬ。このとき自分の腎臓を提供しないということは、自分の命を他人の命より400倍の価値があると見積もることである。そのような評価は正当化できない、とその人物は考えたのだ。この判断は徹底した功利主義的・抽象的な計算の結果であり、そのような計算は共感に動機づけられてできるものではないとブルームは言う。さらにまたブルームはこれまでに行われた心理テストの結果においても共感の高さと道徳性の間にはほとんど関係がなかったと指摘する。

しかし暴力の抑止には共感が重要だという反論がありうる。もし共感が目の前の人間の痛みを自分の痛みのように感じさせるならば、共感しやすい人間が他人に暴力を振るうこと、あるいは目の前で行われている暴力的行為を看過することは難しいように思われる。しかしブルームはこの理由に基づく共感の擁護も否定する。第一に、暴力を受けている人に共感する人が、その暴力を止めるための行動に出るとは限らない。共感による痛みを避けるには、暴力から目をそらして、その場から立ち去れば良いからだ。第二に、共感を持っている人の方がより攻撃的になりうることを示す研究もある。これはある特定の人に共感していると、その人にとって障害となる他者を排除しようとする気持ちが働くからである。これに対しては、共感が悪いのではなく、共感が十分でないことが悪いのだ、という反論があるかもしれない。分け隔てなく、身近な人にもそうでない人にも、視野に入るひとにも視野の外にいる人にも、ひとしく共感することができるならば、それは暴力を減じさせるに違いない。しかしブルームは共感はそのようには働かない、と主張する。共感のスポットライト的本質から、すべての人に共感するというようなことは不可能なのだ。

だがブルームの言うように、共感を抑制して理性を働かせるということはそもそも可能なのだろうか。近年の心理学は、私たちの日常的な意思決定と行動がいかに合理的でないかを次々に明らかにしている。もし人間がそのように非合理的な生き物であるとするならば、ブルームの主張は絵に描いた餅であろう。しかし「理性の時代」と題された最終章において、人間はよく言われるほど非合理的ではないとブルームは言う。なぜなら第一に、ある行為が「非合理的である」と判断できるのは、何が本当に合理的であるかを私たちが判断できるからだ。第二に、人間の意思決定と行動が非合理であるということを示す心理学の実験がそれほど当てになるかどうかが疑問である。ここでブルームは実験室での行動と現実における行動の乖離、そして心理学の実験の再現性の低さを根拠として挙げている。結論としてブルームは、私たちは感情に動かされることなく、正しく理性を行使することで、より良い行動を導くことができるのであり、そうするべきだと言う。

以上が本書の内容の要約である。以下では私の感想を記す。

おそらく人間には他者に共感しやすい質の人と他者に共感しにくい質の人がいて、そこには様々な程度の差が存在している。そしてピーター・シンガーは極端に非共感的、グリーンもシンガーほどではないがかなり非共感的な人なのだろう。グリーンによればカントやベンサムもそうだったと考えられるらしい。念のために断っておくと、これは別に彼らが冷淡だとか優しくないとかということを意味しない。自分の子供に高価な誕生日プレゼントを上げて喜ぶ顔を見たいという欲求より、アフリカの子供に薬を送ることで多くの命を助けたいという欲求を優先することができる人間だということである。私自身は中々このように考えられない。どうしても自分に近い人間のことを優先してしまう。共感しやすさのスペクトラムの中で自分はおそらく真ん中よりやや共感的な方に寄っていると思う。ちなみに本書の著者のブルームはどうかと言えば、おそらくシンガーほど極端ではない。私とシンガーの間のどこかにいるのではないか。

自分が比較的共感しやすい人間であるゆえ、共感は無益・有害であるというブルームの主張には、心穏やかではいられなかった。しかし共感のメカニズム、その特徴、そして共感に駆られた行動が悪い結果を引き起こすようなケースについて知っておくことは、自分と同じような人間にとってこそ重要であると思った。

ただし私はブルームの議論に全面的に賛成するわけではない。彼の議論にはかなり雑なところもある。第一に、共感はトータルでマイナスが大きいので、共感の働きを当てにすることは止めようという主張はあまりに素朴すぎる。ある生物が人間にとって有害だから絶滅させようというのと同じような議論に思える。すべての生物は生態系の中で他の生物と複雑な相互作用を行っている。一つの種を取り除いたときに生態系全体にどのような影響があるかを予想することは難しい。同じように私たちが共感を働かせることを悪として排除したときに私たちの社会に予想外の結果がもたらされる可能性は大きい。共感が有害な結果をもたらすこともあるから気を付けよう、と言うのなら分かる(随分とインパクトには欠ける主張にはなっただろうけど)。しかし共感を道徳性の指針にするのはすっぱり止めようというのは人間の心理の複雑さについてあまりに無理解なのではないかと思う。この点で私はジョシュア・グリーンの道徳二元論(場合によって感情と理性の両方を使い分けよう)の方が賛成できる。

第二に、ブルームは共感の有害性を論じる際に様々な心理学の知見を援用しておきながら、人間の非合理性を示す心理学の知見については、信頼性がないという。もちろん同じ研究を参照しているわけではないから明白な矛盾というわけではないが、しかし読者には具体的にどの研究がどのような理由で信頼性がないのかということは示されない。ブルームはただ心理学の実験の多くについて、再現性に問題があるということ、実験室の状況と現実の状況で人間が同じ判断・行動をするわけではないということを指摘するだけである。なぜこの批判が共感の有害性を示す研究には当てはまらないのかは説明されない。私は心理学者でも統計学者でもないので、個別的な研究の信頼性を自分で確かめることはできない。したがってブルームのアド・ホックに思われる態度が果たして正当化できるものなのか判断できない。さらに言うとブルームは既存の共感性尺度に問題があることを認めながらも、それに基づいて共感についてさまざまな結論を導いている。プロの心理学者ならば自分できちんとした尺度を作ってから論じるべきではないのだろうか。この点でもブルームの議論には説得力を欠くところがある。

第三に、ブルームは共感を抑制して理性をはたらかせなければいけないというのだが、ではいかにしてそれが可能なのかということについて具体的に何も述べていない。ブルームのこの本を読んで、「なるほど共感は抑制しなければならないのだな」と思うことができて、そして実際に抑制できるのは、最初から共感性スペクトルの非共感側の極の近くにいる人だけ、あるいはせいぜい真ん中あたりにいる人だけだろう。「理性を働かせれば世の中良くなる」というのは、このお題目だけだったら「元気があれば何でもできる」というような根性論と対して変わらない。最悪の場合、このような主張は「世の中が悪いのは理性を働かせられない奴らのせいだ」というような言説を引き起こし、共感性スペクトルの両側の間の対立を引き起こしかねない。

本書にはおそらく共感について私たちが知っておくべき重要な事実がたくさん含まれている。しかしそこから共感を悪者に仕立てて排除しようと結論するのは性急である。私は本書を多くの人に読んで欲しいとは思うが、共感が悪であるという主張をうのみにして欲しくはないし、またこの主張に反発するがゆえに本書で提示された事実までをも無視して欲しくはない。

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