「幸福な子ども」という呪い――夢野寧子「ジューンドロップ」(第66回群像新人文学賞受賞作)を読む
『群像』6月号に掲載されている、第66回群像新人賞受賞作・夢野寧子「ジューンドロップ」を読んでみました。
作者である夢野寧子さんの「受賞の言葉」を読んで、わたしは思わず「おお!」と小さく叫んでしまいました。
「何故私ばかり幸福なのだろう、と思いました」――新人文学賞の受賞の言葉として、これはなかなかインパクトがあると思いました。なんだかもうこの部分から既に、ただ者でない感がひしひし伝わってくるではありませんか!
この「ただ者でない」(応募作1986篇から選ばれているのですから、ただ者でないのは自明のことですが)夢野寧子さんが書いた「ジューンドロップ」の内容を、早速見ていくことにしましょう。
主人公は高校二年生の女の子「椎谷しずく」。作品は終始「しずく」の一人称で語られます。冒頭の部分を引用してみます。
いやいや、ちょっと待って! 六月が「嫌」な理由がこれって……?
なんか、すごくフツーですよね。
少女の視点って、大して悪意なく意地悪なところがあったり、妙にシニカルだったりするところがあると思うのですが、「しずく」のやわらかな「です・ます調」の語り口は、世の中をちょっと斜めに見ているような感じはなくて、代わりにそれこそごくフツーの、「幸福」な女子高校生という印象を読者に与えます。
実際、「しずく」は「幸福な子ども」だと自己規定しているのです。
こうした「幸福」観は、夢野さんの「受賞の言葉」にある「幸福」という言葉とも重なるように見えます。(と言っても、夢野さんご自身は高校生ではありませんよ、念のため!)
前に引用した「受賞の言葉」の後に続く部分を、もう少し引用してみましょう。
なんとなく、読んでいてハラハラしてしまうような内容です。取りようによっては、ちょっと挑発的にも受け取れてしまう危うさを含んでいる気がしないでもありません。
しかし、夢野さんはこの部分の後に、更に続けて次のように書いているのです。
ここまで読んで、わたしは夢野さんの使う「幸福」という言葉が、決して一筋縄ではいかないことを知りました。
それは、作品の主人公「しずく」が自己規定する「幸福な子ども」という言葉ともリンクするものだと思われます。
つまり――
「しずく」は本当に「幸福な子ども」なのだろうか?
という疑問です。「しずく」は自分の「幸福」について、以下のように説明します。
「しずく」は確かに「大病」も「大怪我」もしたことはありませんが、小学四年生の時からずっと、極めて激烈な片頭痛に苦しめられています。それには根本的な治療法がなく、頭痛の前触れを察知したら常に携帯している鎮痛剤を慌てて飲み込む以外になす術はありません。まるでいつ爆発するかわからない爆弾が、いつも頭の中にあるような感じです。
また、両親も祖父母も従姉も、「しずく」には優しく接するのですが、そこにはどこか不自然なところ、何かを隠しているような雰囲気があります。
例えば、「しずく」は母と祖母の関係をこんなふうに語ります。
「今の危うい均衡」を保つための緊張感は、祖母と母の間だけにあるのではなく、当の「しずく」と両親、祖父母、従姉の真央ちゃん、それから友人「ウメモトタマキ」との間にも揺曳しています。
そもそも、なぜ「しずく」は「です・ます調」の文体で語るのでしょうか。しかも語りかけている相手は、「あなた」という人物なのです。
「あなた」とは、いったい誰なのか?
という謎が、この物語の縦糸となっています。
「あなた」をめぐる疑問が、一見優しく温かな家庭の裏に潜む不穏な空気と相まって、一種ミステリー的な興味で、読者を惹きつけます。
複数の選考委員が「選評」で、期せずして「伏線」とその「回収」というミステリー用語を使っているところは注目に値すると思います。
これらの褒めてるんだが、けなしているんだかわからない微妙な言い回し! さすが現代文学シーンを代表する作家である選考委員たちの言葉ですね!
ただ、片やいかに巧みに伏線が張り巡らされ、それらが見事に回収されるか否かがポイントとなるミステリーと、片や純文学と呼ばれる、かなり定義の難しい小説形態との、その本質的な差異について言及されているようで、「ミステリーも面白いけど、純文学も好き」というわたしのようなお気楽読者としては、これらの選評はとてもスリリングで、面白かったです。
純文学としてはちょっと物足りないという評があるにしろ、見方を変えれば、「ジューンドロップ」はとても丁寧に作り込まれた作品であり、島田雅彦さんの言葉にあるように、「最後まで読者を引っ張る力量」――つまり、読物として非常に面白い作品だとわたしは感じました。
「しずく」は、「縛られ地蔵」の前で片頭痛の発作に襲われた時、たまたまその場にいた「ウメモトタマキ」が助けてくれたことがきっかけで、友達になります。
ふたりは知り合った当初、お互いに名前を知らないので、「タマキ」は、(「しずく」が「ペコちゃんでお馴染みのミルク味のキャンディ」を持ち歩いているところから)「しずく」を「ミルキーちゃん」と呼び、一方の「しずく」は自分が片頭痛に苦しんでいた時、「タマキ」がポカリスエットを買ってきて飲ませてくれたので、相手を「ポカリちゃん」と呼びます(「しずく」は口に出すのではなく心の中で、ですが)。
こんなふうにかわいくて、ちょっとユーモラスなふたりのやりとりの間に、不意に重い現実が顔を覗かせるのですが、こうした構成はとても巧みだと思います。
「しずく」の両親は「不妊治療」を受けています。そのことが、「しずく」の生活と心に複雑な陰を投げかけています。
他にも、タイトルになっている「ジューンドロップ」という言葉は、「梅雨の時季に、まだ若い実が自然と落下する現象」を指すと作中で説明されていますが、そこには二重三重の象徴的意味が籠められているように感じられました。
ここで前述の、わたしがこの作品を読み進めながら感じた疑問――
「しずく」は本当に「幸福な子ども」なのだろうか?
という問題について、もう一度考えてみたいと思います。
引用部の「ワクチン打つ派? 打たない派?」という言葉が示すように、この物語は、コロナ禍の日本社会で生きる女子高校生を描いています。
わたしが海外に住んでいて、多少なりとも「外からの視線」を持っているからかもしれませんが、現代日本で生活している10代の少女は、それだけでかなりハードな日々を送っているように思われます。
それでも日本という国は、その内側にいる人びとに、「君たちは幸福なんだ、世界には君らより不幸な人がいっぱいいるんだよ」と圧をかけてくるシステムが、かなり強固に確立されているようです。わたしはこうした透明なシステムの存在に、海外に出て初めて気づきました。
作中何度も登場する「縛られ地蔵」の姿は、わたしには、「しずく」たちが(作中ではそうとは書かれていないものの)密かに感じているに違いない、厳しい抑圧の象徴のようにも読めました。
だからこそ――
ラストにおける「しずく」の感情の爆発は、「幸福な子ども」という呪いの縄を断ち切ろうとする勇敢な少女の姿として、わたしの眼に鮮やかに映ったのでした……。
この作品の単行本は、講談社から今月31日に発売だそうです。