![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146380460/rectangle_large_type_2_e2aebbb3235675818001300617fbbedf.png?width=800)
風と花の賦――平安神奇譚【第四章・冬の舞(第33話)】
横臥した風笛の傍らに、花氷男は端座している。
風笛の心臓は、再び規則正しい鼓動を響かせていた。
間もなく、意識も戻る筈であった。
だが、眼を覚ました風笛は、花氷男が彼女を蘇生させるために何をしたのかも、己が血の奥に眠る〈記憶〉のことも知らぬに違いない。
「荒ぶる神の、美しき裔よ」
思わず声に出して、花氷男は呟いた。その眸が限りなく優しい光を湛えている。
まだ目覚めぬ少女の身体は、哀しいほどほっそりとしている。指など、少し力を込めて撓めれば折れてしまいそうに繊い。
そのくせ、肌理の細やかな膚の奥には牝鹿のような敏捷さと、屈強な男も及ばぬ芯の強さが隠れているのだ。
〈造化の妙〉と言えばそれまでだが、今日ようやく、その理由の一端を垣間見た思いがした。
風笛の天性の身体能力の高さは、山野を自在に疾駆する山人の父から受け継いだものに違いない。
夏のあの夕、花氷男の背に一糸纏わぬ姿でしがみついてきたことがあったが、ああした迸るような激しさも、彼女の血に潜む野性の、その一瞬の発露だったのではあるまいか。
――これもまた、縁……。
東之谷の初代谷主は、唐土に在りし時は道士であった。風水だけでなく、卜占も行っていた。
こうした特殊能力は、それが高度であればあるほど、己の好むと好まざるとに拘らず、政との関わりが生じてしまう。
政の世界は複雑怪奇であり、その権謀術数の渦の中に巻き込まれた者は、たとえ己に非はなくとも――いや、むしろ非がないからこそ排斥され、糾弾される可能性があり、甚だしき場合は命すら失う。
初代谷主も、心を許した弟子の花氷男にさえ多くは語らなかったものの、その能力の高さ故に権力に利用され、ついに自分の国を捨てねばならぬ境遇に立ち至ったことは容易に想像がつく。
遣唐使が命懸けの任務であるように、一族を引き連れて唐土からこの国に渡ってくることもまた、決死の冒険だった筈だ。
〈家〉とは〈内〉であり、謂わば外部と内部を隔てる匣である。
定まった家を持つ者は、〈身内〉という内部を形成し、その外に在る者、或いは外から入ってこようとする者を〈敵〉として排斥する。
都のように、人々が聚(あつま)り散じ、流動し続ける場所は別だが、異国からの船が辿り着くのは、いつも決まって都から遠く離れた僻村だ。
長い苦難に満ちた旅の果てに、ようやくこの国の土を踏んだ初代谷主の一行は、ほっと一息入れる暇もなく、辺りに遮蔽物のない危険な海辺を離れ、山中に身を隠した。
余所者であれば、同じ国の人であろうと排斥せずにはおかない村人たちにとって、言葉の通じない異国人は格好の獲物である。
見つかれば、金品だけでなく命を奪われると覚悟しなければならない。
故に、先ず山を目指した彼らの判断は間違っていなかったが、問題は彼らが既に疲弊し切っていたことだった。
言葉も通じず、風俗習慣も異なる異国の地で、彼らの命運は正に風前の灯だったのである。
そんな彼らを救ったのが、山人たちだった。
定まった家を持たぬ彼らには、元より〈内〉と〈外〉の区別がなく、特定の土地に対する執着も薄かった。
だが、こうした彼らの一種の淡白さが、朝廷の兵に破れ、本来の居住地を奪われ、山奥へ追いやられる原因になったと考えるのは早計である。
流れが巨大な岩に当たって支流に分かれるように、彼らは分散して移動していたに過ぎない。
山人には彼らだけの〝通路〟があり、里人の殆どが定住的な生活を送っていたのに反し、彼らは彼らのみが知る〝通路〟を通って、この国を縦横に移動していたのである。
山人と行動をともにしながらこの国の言葉を学ぶうちに、初代谷主は、山野を己の庭のように駆け巡る彼らの能力が、唐土の武術における〈軽功〉と似た原理に基づくものであることを発見し、双方の長所を取り入れる形で体系化した。
――これが、〈花狩〉の技なのである。
東之谷に入る前から、花氷男には山人を〈土蜘蛛〉と蔑む気持ちは毛頭なかった。
むしろ彼らの類い稀な能力と、地上の掟に縛られぬ自由さに惹かれてさえいた。
山人と初代谷主の間の浅からぬ因縁を知るようになってからは、単に彼らの生きざまに魅力を感じるだけでなく、一種の親しみを抱くまでになった。
花氷男のような身分の人間としては、かなり特殊な例に属すると言えよう。
「風笛よ。そなたの身体を流れる血の半分は、国神の荒ぶる血なのだ……」
汗で張り付いた少女の前髪を愛しげに撫でると、花氷男はその艶やかな額に、そっと唇を押し当てた。
「そなたの力を、どうか儂に貸してたもれ」
囁くように、祈るように、花氷男は言った。
閉じた瞼を縁取る長い睫毛が、反射的に僅かな震えを伝えたのみで、荒ぶる神の血を引くこの眠り姫は、まだ夢から覚めない。
○
ずっと後になってからだが、風笛はこの冬の日々を回想して、次のような言葉を遺している。
――吾が身より、心あくがれ出でて天に遊ぶ。あたかも夢の浮橋をゆくが如し。
その道に達したものは、そこに到るまでの血塗れの苦しさ、狂気と紙一重の危うさをあえて語ることはない。
雅に〈夢の浮橋〉で遊ぶ〈心〉は、謂わば道の最後に咲いた〝花〟である。
世人はその特権として、いつも〝花〟だけを愉しむ。
長閑な彼らの眼は〝花〟の美しさに酔うばかりで、それが如何なる土の上に咲いたものなのか知ろうともしない。
――やがて、冬が去った。
※【第四章・冬の舞】完、次回から【第五章・龍の舞】に入ります。