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風と花の賦――平安神奇譚【第三章・秋の舞(第20話)】
「――という話だ」
長耳は淡々と語り終えた。
花氷男は腕を組んで黙している。
また縁の下から声がした。
「風笛、泣いておるのか」
「あ、いえ、そのようなことは――」
風笛は慌てて、袖を目頭に押し当てた。
決して嗚咽を洩らしたわけではないのに、長耳は風笛の睫毛に宿った涙の珠までお見通しらしい。
――不思議なお人だ。
と長耳のことを、花氷男とはまた違った意味で、しみじみ思わずにはいられない。
「花氷男よ、物語とは何じゃ」
ふと思いついたかのような口調で、長耳が訊ねた。「言霊には力があると言うが、その力は物語になると、より強大になるものなのか。見よ、風笛にしてからが、手もなく心を盗られておるではないか」
風笛は思わずはっとした。
〈心を盗られる〉というのは、相手の言葉や行為などによって、己の心が支配されてしまう状態を指す。
儚く、美しい物語だと思って聞いているうちに、心が濡れた綿のようにぐずぐずになってしまっている。
もし長耳が敵で、この隙に乗じて襲ってきたとしたら、自分は構える間もなく斬られているだろう。
――これが言霊の恐ろしさ……。
今更のように、そのことを思い知らされた気がする。
「長耳よ」
花氷男がようやく口を開いた。「先ほど、似非の月が現れたおかげで、真を照らすべき月が雲間に隠れたと申したな?」
「申した」
「今の話が似非の月なのじゃな」
「いかにも」
「え」風笛は眼を瞠った。
話がよくわからない。戸惑っていると、
「風笛、そなたはなぜ今の話を美しいと思うのか」
長耳が不思議なことを訊ねてきた。
「それは……」
確かに、風笛は眼に涙を浮かべるほどこの話に惹きつけられた。
心を盗られた。
しかし、正面切って何処がどうよかったのかと問われると、うまく説明できない。
結局、女は身体ごと奪い去られるような、激しい愛に憧れるものなのだろうか。
心のどこかに、嵐の如く愛されてみたいという願望が潜んでおり、それがこの話に触発され、〝形〟を得たということなのだろうか。
そうかもしれない。
だが、それだけが理由ではないような気も風笛はするのだった。
物語の結末――男の必死の努力にも拘らず、女があっさり鬼に喰われてしまうところが、やはり肝なのだ。
もっとあからさまに言ってしまえば、この結末でなければならない。
男と女が逃げのびて、仲良く暮らしてはいけないのである。
女はあっけなく死に、男は身も世もなく悲しみに暮れねばならぬ。
このように言うと、女とは自分以外の女が幸福になることを妬み、不幸を願わずにはいられぬ醜悪な生き物のようだが……。
――本当に、そういうことなのかしら。
外面如菩薩、内心如夜叉。男の眼には、時にそう映るらしい女の、その本性のせいとばかりは言えぬように風笛は思うのだ。
自分が女である故に、男の一方的な決めつけに反撥したくなるだけなのかもしれないが、それでも――
――その姫は、蔵の中で鬼に喰われながらも、さほど悲しんではおらなんだのではないか。
蔵の前に一晩中立っていた男は、鬼や追手に備え、激しい風雨に耐えながらも、女と逃げのびた後のこと――つまり、明日からの二人の生活を、あれこれ思い描いていたに違いない。
いや、女の衣を一枚一枚剥いでゆき、白く輝くような裸身の、まだ誰も触れたことのないふくらみや括れに手を触れる妄想に惑溺していたのやもしれぬ。
――でも、女は違う。
そう風笛は思うのだ。
女も未来のことを考えぬわけではない。
だが、それよりもまずは今の幸せに、うっとりと身を任せていたのではないか。
雨漏りのする、暗い蔵の土間に座らされ、発熱のために震えながら、それでも女は自分を幸福だと思っていた。
――一人の男に、こんなにも愛されたのだから。
鬼が現れた時、女はもちろん、男に救いを求めてみただろう。
しかし、どんなに声を振り絞っても自分の声が男の耳に届かないと知ると、
――これはこれで仕方がない……。
静かに、そう諦めたのではないか。
自分は今幸福なのだ。幸福なまま消えてしまえるなら、それはそれで構わない。
風笛には、女の顔が最後に微笑んでいたような気さえするのだ。
ただ、それを口にするのには躊躇いがある。
心から尊敬する師ではあるが、花氷男もまた男なのだ。
男の前で、女の胸の奥にある想いを語るなど、風笛のよく為し得るところではない。
だから、黙っている。
「まあ、無理に答えずともよい」
言葉は男のようでも、長耳の声には、やはり女同士のさりげない気遣いが込められていた。
顔を見たのは一度きりでも、風笛が長耳に花氷男とは異なる親しみを覚えるのは、やはりこうした同性の間のみに通じる、一種の共感力がある故だ。
「だが、風笛。この話を最初から、もう一度思い起こしてほしい。何処か、おかしなところがあるとは思わぬか」
「おかしなところ、でございますか」
風笛は小首を傾げる。
「男は女を攫って逃げたというが、どうやって攫うのだ? ただの女ではない、やんごとなき姫君を。いくら夜陰に紛れてとは言え、邸の者に気づかれず、たった一人の力で姫を運び出す。そんなことができようか」
「そ、それは……」
風笛は思わず口籠もった。