『太宰治は、二度死んだ』第三章・東京篇Ⅱ(第26話)
結局、お島姐さんがホリウッドに戻ることはありませんでした。
まだ傷も十分に癒えない身体で、わたしにも行き先を告げず、姐さんはいなくなってしまったのです。
わたしの胸の真ん中に、ぽっかりと穴が開いてしまったみたいでした。
でも心のどこかでは、こうなることを知っていたような気もしました。
姐さんの部屋の様子が、思い出すともなく目の中に浮かびました。
女の部屋とは思えない、あのがらんとした佇まい。あれはきっと、姐さんの心の〝形〟だったのです。
あんな空っぽな心を抱えて、姐さんはこれまで生きてきたのです。
――哀しいわよね、人間て。
姐さんのあの言葉は、わたしの命が消えるまで、耳の底で鳴り続けるような気がします。
それにしても、逮捕に怯える修治さんがわたしを訪ねてきたちょうど同じ日に、姐さんが刺される事件が起きたことは、果たして偶然だったのでしょうか。
全てはあらかじめ決まっていたのではないか、未生以前に定められていたことなのではないか。
そんな気さえするのです。
でも、いったい誰が定めたのでしょう。
神?
それとも、悪魔?
修治さんは、工藤のことをメフィストフェレスに擬えました。
今回、修治さんは幸いにも逮捕を免れました。
でも、相変わらず工藤との関係は切れず、党からの指示が工藤を通して修治さんに伝えられ、その度に資金カンパなどのシンパ活動をさせられているようでした。
確かに、神より悪魔の方が勤勉で、なにくれとなく人間に構ってくるものなのかもしれません。
もし、お島姐さんがホリウッドを辞めていなければ、わたしが急坂を転がり落ちる前に、なんとかして引き留めてくれたでしょうか。それとも、わたしの愚かさに呆れ果てたでしょうか。
わたしは結局、姐さんの言いつけに背いてしまったのです。
あれだけ親身に言ってくれた人の言葉を、わたしは守れませんでした。
あの共産党員逮捕の一件のほとぼりも冷め、修治さんはまた頻繁にお店にいらっしゃるようになりました。そして、その頃からわたしの立て替えるツケの回数が増えていったのでした。
初めは一回だけのツケを、次回には必ず払ってくれていたのですが、そのうちツケが二回になり、更に三回、四回と増えていったのです。
それだけではありません。修治さんの様子も変わり始めました。
以前より無茶なお酒の飲み方をするようになり、刹那的と言うのか、一時の享楽のみを求めている様子でした。
お店がひけた後、わたしを家の近くまで送ってくれ、最後に接吻して別れる時も、修治さんがあまり強くわたしの唇を吸うせいで、口の中にうっすら血の味がすることすらありました。
狂風。
狂った風は吹きやむどころか、ますます勢いを増し、わたしの耳元で唸りを上げるようでした。
「あつみさん、あのお客さん、あなたを御指名よ」
その日は早番で、お昼前から店に出ていました。
この時間帯のお客さんはお酒を召し上がらないので、さほど忙しくもなく、ちょっとぼんやりしていたわたしは、同僚に言われて慌ててそちらを振り向き、息が止まるほど驚きました。
「どう、して……?」
その人は照れたように笑いながら、わたしに向かって小さく手を振りました。
和夫さんが、そこにいたのです。
「この間まで、広島に帰省しとったんだ。やっぱり故郷はええな。空気の味まで違う気がする」
「そう……」
和夫さんは、初めてお店にみえた時と同じように、ココアをご注文になり、それを少しずつ口に運びながら、わたしに屈託のない笑顔を向けてきます。
でも、今のわたしには自分と和夫さんの間の距離がうまくつかめず、どういう口の利き方をすればいいのかわかりませんでした。
武雄兄の部屋で、和夫さんがわたしをモデルに絵を描いていた時、わたしもまた、和夫さんを見つめていたのです。
あの頃の和夫さんは、よく外でスケッチするせいか真っ黒に日に焼けていて、きれいに澄んだ眸が印象的でした。
休憩時間におしゃべりする時の和夫さんの目は、穏やかな色を湛えていましたが、キャンバスに向かっている時は、逆に怖いくらい真剣でした。
ポーズを取ってじっと動かずにいるわたしは、実は休憩時間よりずっと多くのことを和夫さんに語りかけていました。語り続けていました。
恋の言葉を。
あふれるような恋の言葉を。
思い出すと、あの臨時の粗末なアトリエには、常に光が満ちていたような気がします。
あの輝きは、わたしが初めて知った恋だったのです。
ところが、六月の初めに和夫さんがホリウッドに現れた時、なぜかわたしは、相手があの恋しい和夫さんだと気づきませんでした。
確かに、三年前と比べて和夫さんは変わっていました。
以前は坊主頭だったのが、いかにも芸術家らしく髪を伸ばしていましたし、全体的に少年らしさが消え、すっかり大人の男の人の雰囲気になっていました。
でも、いくら外見が変わったとしても、初恋の人が目の前に立ったのです。瞬時に気づくのが本当ではないでしょうか。
それなのに、わたしは気づきませんでした。
原因は和夫さんの方ではなく、きっとわたしの方にあったのです。
和夫さんが変わっていたから、わからなかったのではありません。
わたし自身が変わってしまったせいで、目の前にいるのがあの懐かしい初恋の人だと気づくことができなかったのです。
和夫さんに会わなかった間に、わたしの身に起こった変化はそれほど大きく、また決定的なものだったのです。
そう思うと、わたしは耐え難いほど遣る瀬ない気持ちになりました。
「ごめんなさい、今何て仰ったの?」
考えごとをしていたせいで、和夫さんの言葉を聞き洩らしてしまいました。それでも何か、とても大事なことを言われた気がしたのです。
「武雄たちは、台湾へ行くんじゃと。奥さん――秋乃さんという名前じゃったな、そのお父さんの紹介で、武雄は内地にバナナを売る会社に入ることに決まった言うとった」
「台湾、へ……」
日清戦争の後、清国が台湾を日本に割譲したのは明治二十八年のことです。
台湾は、十六世紀にポルトガル船によって発見された時、船員が思わず〝美麗島〟と叫んだほど美しい、また物成のいいところだそうで、昭和になって日本の植民地経営も安定期に入ったことから、夢を抱いて台湾に渡ろうとする人は少なくなかったのです。
でも、まさか武雄兄と秋乃さんまで日本を離れて台湾へ行ってしまうとは、なんだか夢でも見ているみたいでした。
「どう思うかと訊かれたけぇ、僕は賛成じゃ言うとった。武雄にゃあ、そがいな仕事の方が向いとる思う。台湾で大いに活躍してもらいたいな」
「そんな話が……。わたしは、何も知らなかったわ」
兄夫婦の厚意を土足で踏みにじるようにして上京したわたしに、何の連絡もないのは当たり前の話で、決してひがんで言ったわけではないのですが、和夫さんは慌てたように言葉を継ぎました。
「いや、武雄のやつ、しいちゃんにゃあ手紙じゃのうて、面と向かって話したいそうじゃ。一度上京する言うとった」
「武雄兄ちゃんが東京に来るの? それはいつのこと?」
「広島での仕事をおさめてからじゃけぇ、十一月の末頃になる言うとった」
「十一月の、末……」
十一月の末。
その言葉を聞いた時、わたしの頭の中で〝音〟が鳴ったのです。
それは何かが組み立てられていく音のようでも、逆に崩れていく音のようでもありました。
いずれにしても、わたし一人の力ではどうにもならない、何か大きなものの立てる厳かな、そして不気味な響きでした。