さかなとごはん2

 あぶないよー、となるべく気の抜けた声をかけた。
 部屋には女学生がいた。太宰さんのあれは女学生じゃなく女生徒だったはず。確か。白のラインが入ったセーラー服の上に、灰色のカーディガンを羽織り、肩に触れるくらいの長さの髪で、額を出して、目元涼しく、きっと同年代の中では年相応に少し大人びているのだろう。オーナーの娘さんは、まだ中学生だったか、それとももう高校に上がっていただろうか。直接聞いたことがあった気もするけれど、けっこう前のことなので忘れてしまった。
 女学生は踊り場の上でしゃがんで、水棲生物に向かってすっと手を伸ばし、ちっちっちっと猫を呼ぶように舌を鳴らしていた。栗色の目と髪をした水棲生物はというと、踊り場の端で腕組みするような形で引っかかり、女学生の様子を窺っている。それこそ猫のように。すぐに水中へと避難できるように。
 私はバケツに入った死んだエビを踊り場まで運ぶ。水棲生物は自分のごはんの接近に目を輝かせるものの、見慣れない灰色カーディガンがいることに戸惑い気味だった。
「あぶないって何が?」
 そう聞きながらも、灰色カーディガンは水槽生物から目を離さないでいる。何故水棲生物が近寄ってこないのかと首を傾げたりもする。私はバケツを踊り場の床に置き、死んだエビをちょいちょいと指でつつきながら言った。
「その子に引き込まれておぼれたり……って事故も年に何回かあるよ」
「ふーん」
 そう息を漏らすようにしながらも、灰色カーディガンは変わらずちっちっちっと指を揺らしている。私も特に気にしない態度で、死んだエビを一尾、バケツから取り出して水棲生物に見せてやった。軽く揺らしてから放り投げる。ちゃぽんという水音は、水槽生物のすぐ背後に。水槽生物は沈みゆくエビを追って、すっと踊り場から離れる。水中へと手を伸ばして足で水をかき混ぜ、水面に波紋を残す。水槽のまだ浅いところで、沈みかけのエビを捕まえた。
 私は目に映っているものとはまた別の光景を思い浮かべる。
 引き込まれておぼれた灰色カーディガン。虚空を見つめる目を見開いたまま。水を吸って少し重たそうになったカーディガンの裾が水槽の中でゆらゆらと揺れている。彼女に吐き出せる息はもうすでになく、薄く開けた唇がほんのりと官能的だ。そんなふうに水中で漂うことになった彼女の周りを、水棲生物がもの珍しそうにしながら泳いでいる。生きていないからか、水棲生物は戸惑いもなく懐くように触れて、離れて、また近寄っていく。魚が餌をつつくように。水棲生物は猫だったり魚だったり忙しい。
「そういうのも悪くないけどね」
「……何が?」
 私がそう聞き返すと、灰色カーディガンは私のほうに目を移し、軽く驚いたような目の表情を見せた。
「そういう想像をしてたんじゃないの?」
「そういう?」
 もう一度聞き返すと、彼女は一旦、唇を引き結んでから、水槽生物に視線を戻した。
「あの子に引き込まれて、水槽の中で息絶えるカーディガン着た女子高生……の想像」
 オーナーの娘さんはもう高校に上がっていたらしい。
「さとり世代、怖いね」
「……いえーい」
 とてつもなくやる気のない「いえーい」だったので、わたしの口元が自然と笑みを作った。それから二人して水棲生物に餌をやった。死んだエビでちゃぽんちゃぽんと水面を鳴らした。水棲生物はこちらの様子を気にしながらも、エビを捕まえ、殻を剥いて食べる。殻が水槽の底に沈んだり、水面にぷかぷか浮かんだりする。私はひょいと手渡しで餌をやる。水棲生物はそろそろと近寄って、ぱしんと音がしそうに素早く餌をもぎ取った。オーナーの娘さんも同じふうにして餌づけを始めた。じりじりする時間を体感したのち、それは何とか成功した。
 あの子、殻剥いて食べるんだね。そうみたいだね。そんな会話のあと、灰色カーディガンはおもむろにエビの殻を剥き、指先のエビ臭さを強くした。剥いたエビを口にくわえる。エビは生食用ではないので、人がそのまま食べたらお腹を壊すだろう。彼女は瞬きしない目で水中を漂っているのが似合いそうだとはいえ、私の知っている限りでは人のはずだった。
 しゃがんだ身体の前に両手をついて、あごを突き出し、水棲生物に「ん」とやる。そこまでか。ほっとけよ。と目で会話した。
 結局、そんなエビ臭いポッキーゲームは成立せず、またちゃぽんちゃぽんと死んだエビが水面を鳴らした。ときどきもぎ取られた。そうしているうちに時間が経ち、やがて灰色カーディガンはバックステップするように立ち上がった。足が痺れたようなしかめっ面でしばらく立ち尽くしたのち、ゆっくりと慎重に階段のほうに足を踏み出す。エビ臭い指をカーディガンのポケットに仕舞おうとして、途中で思いとどまる。
「それじゃあね」
「はーい」
 指をぷらぷらさせながら階段を降りていく灰色カーディガンを、踊り場の端に引っかかった水棲生物とともに見送った。


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