さかなとごはん1

 彼女はエビが好きだった。死んだエビより生きたエビのほうを好んだ。綺麗に殻を剥いて食べる。そんな事実とは正対するように、今日の彼女は死んだ姿を見せていた。砂を敷いた水槽の底に、お腹を上に向けて横たわり、顔をこっちに向けて目を見開いて、口は半開き、意思のない表情を浮かべている。軽く曲げた片膝と、何かの事故があったかのように投げ出された両腕。ワイングラスを支えるような形の手と指先に、「死体」と「肢体」の二つの言葉が浮かんだ。
 水の中で暮らす彼女に服は邪魔なので、彼女の基本色は白に近い肌色。髪は栗色で少しクセ毛。瞳も同じ栗色。ささやかな胸が、仰向けになることでさらにささやかになっていた。細く引き締まった腹筋に、若干のイラつきを感じたり感じなかったりする。
 私が水槽の前にバケツを置くと、彼女の肩がぴくんと反応した。けれど目はずっと見開いたまま、瞬きもしない。水中だと眼球が乾かないのだろう。水槽は私の身長を倍にしたほどの高さがあり、二十人ほどの私が彼女に添い寝してもまだ余裕があるくらいの広さがあった。ピチッとバケツの水が跳ねて、彼女の目の焦点がバケツに合わさった。
 エビ。バケツの中には生きたエビが入っている。生きたエビは死んだエビよりも高価なので、彼女のごはんとして出されることはそう多くない。
 バケツの中で手を揺らがせて、エビを一尾捕獲する。尻尾を持って吊り下げると、ピチピチとして水の粒が跳び、床に透明の斑点を残した。もう半纏が恋しい季節だな、などとわりとどうでもいいことを思う。炬燵に入って半纏を着て背中を丸める幸せに思いを馳せるけれど、そんな幸せと切なさを伴った思いに対抗するかのようにエビは活きがよかった。ピチピチする。ピチピチとするのだった。彼女の視線がバケツから私の指先の下へと移る。ゆっくりとエビを平行移動させると、彼女の目もそれを追いかけた。
 しばらくそうして遊んでから、けれど彼女が機嫌を悪くする前にと、エビを水槽の上のほうに放り投げた。水槽は上の面が開いている。水槽脇にある階段を上ってそこの踊り場のような場所から餌を与えるようになっているのだけれど、エビとか小魚とかは今まで何度も投げ入れている。
 ぱちゃんと音を立ててエビは水槽に落ちる。彼女の目はただエビを追っていた。彼女はゆったりと手で砂の底を押して身体を浮かせ、エビを取りにいく。浮いた砂の粒が水と混ざって白く濁り、けれどゆっくりと透明になっていく。エビは水面にぶつかったショックで動きを止めていたものの、すぐにぐいぐいと泳ぎ始めた。後ろ向きに泳ぐエビに、浮かび上がってきた彼女の手が迫る。エビは泳ぐ方向を変えて一度逃れ、しかし二度目に捕まった。
 エビを掴んだあとは方向転換して、彼女はまた水槽の底に沈んでいく。そうしながら彼女の手は器用にエビの殻を剥く。足のある腹の真ん中を割って殻を裂く。外す。頭をもいで、中をちゅうっと吸い上げて、中身を吸われた頭は水の底に投げ捨てられる。エビの身のほうを咥えたところで、彼女の指先が水槽の底の砂を触った。今度はうつ伏せに寝転んで、組んだ腕の上に頭をのせ、口をむぐむぐ動かして、幸せそうに目を細めた。彼女の口からはみ出したエビの尻尾がまだぴくぴくと動いていた。
 私はそれを眺めながら踊り場のような場所に上り、そこに備えつけられている椅子に腰かけ、その前の小さなテーブルにバケツを置いた。バケツの横にレジ袋を置いた。お弁当屋で買った唐揚げ弁当、それが私のごはんだった。彼女と一緒にお昼ごはんを食べる。彼女の係である私は、大体毎日ここでお昼ご飯を食べていた。
 バケツをひっくり返して中身を水槽の中に移すと、エビたちは好き勝手に泳ぎ始めた。広がって散らばって、沈んだり浮かんだり。火の通っていない半透明のエビが、そうやって泳いでいるところを見るのは、少しばかり楽しい。照明が青ければ水族館の気分なのだけれど、生憎と天井にあるのは残念ながら昼光灯なので、青みがかってもなかった。
 彼女は私のちょっとした感慨などおかまいなしに、また水の底から離れ、ぐいぐい泳いでまたエビを捕まえる。それも人魚がエビとたわむれているようで、殻を剥いて食べるときに目を逸らしていれば、水族館らしくもある。気がした。
 私は椅子に腰かけて、テーブルに置いた唐揚げ弁当を前に両手を合わせた。いただきます、と呟いている間も、彼女は変わらず水槽の中でエビを剥いて食べていた。お弁当のおかずの蓋を開けると、唐揚げの香ばしいにおいが立ち昇る。小袋に入っていたウスターソースをかける。箸を割って、肉の塊を一つ挟み、口に運んで噛むと、ソースと衣と鶏の肉汁の味が口の中で混ざって絶妙の味わいに。唐揚げを咀嚼しながらもう一つのほうの蓋を開けて、湯気を立てるご飯を口にする。
 前に彼女にお弁当のハンバーグを薦めたのを何となく思い出した。一昨日のことだ。彼女が水槽の端から踊り場に両腕を投げ出して物珍しそうに見つめていたので、お弁当の蓋に一欠片をのせて、顔の前に置いてみたのだった。彼女の反応はというと、ふんふんとにおいを嗅いだあと、安物のキャットフードを嫌がる猫のように顔をしかめた。そうして踊り場からずり落ちるようにして水槽の中に戻っていった。やはり彼女は魚介類が好みなのだろう。
 栗色の髪をした彼女がエビの命をむさぼるのを眺めながら、私はお弁当をむさぼる。生きたエビを追っているせいで、今日はいつもより彼女の動きが激しかった。しなやかに腕や腰や足を動かし、身体を折り曲げて方向転換する。見る間に生きたエビが彼女のお腹の中に収まり、殻と頭が砂の上に落ちていく。
 あとで砂地に落ちたエビの頭と殻を回収してもらわなければいけない。昔、小学生のころ、プールの授業で碁石拾いをやったことを思い出した。それは今の小学校でもやっているのだろうか。
 彼女が水面に浮き上がる水音がして、そっちを向くと、彼女が踊り場の端に手をついて、私の様子を窺っていた。彼女の手の数センチ先に、エビの殻が置いてあった。彼女は私をじっと見つめたまま動かない。私の反応を待っている。
 私はお弁当と箸を置いて、椅子から身体を離し、彼女のほうに歩み寄った。しゃがんで手を伸ばし、彼女の栗毛を指先で触り、そのまま濡れた髪をしゃわしゃわ撫でていく。バスタオルでわしゃわしゃやりたい衝動に駆られるけれど、彼女は基本的に水の中で暮らしているのであまり意味がない。濡れた髪の上に指を滑らせていくと、そのうちに彼女の口元が嬉しそうに綻んだ。

#小説 #さかな

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