カレー、シチュー
六歳児の作り物のような手が私の肌に触れる。私の右頬に。触り心地のよいヘッドドレスには興味を示さない。小さな彼女の手は熱くすべすべしていて、私の右の頬はそれよりも冷たくでこぼことしている。元々体温が低いのか、事故で焼け爛れたせいで温度が上がらないのか、よくわからないけれど、彼女はこの感触を気に入っているようだった。
無遠慮にべたべた触ってくる。毎度のこと。気持ちの微かなざわつきは、彼女の満ちてこぼれるような笑顔が洗い流してくれる。ざわつかせるのは彼女で、それを拭い去るのも彼女。何だか理不尽な喜びを覚える。子供の熱い手が、小さな指先が、私の頬を軽くつねる。
「お嬢様、そろそろご飯行きましょうか」
つねられながら言う。
「……うん」
自分の遊びが中断されたのに少し不服そうだったけれど、空腹と時間による決まりごとには逆らわなかった。私はいつものように彼女を左脇に抱え、立ち上がると同時にその身体をベッドから離す。すると、きゃっと小さな声が上がった。
彼女は荷物のように抱えられる乱暴さや、その浮遊感を気に入っているようだった。もう随分と重たい。こんなふうにできるのはいつまでだろう。このどこかいびつな形の抱っこ。彼女が物心つく前からやっていることで、私のほうにも馴染みができてしまっていて、成長の証の重さに少しのさみしさを感じる。
ドアのレバーを途切れた右手で押さえるように降ろし、そのままの流れで押し開ける。身体で押しのけるようにしてドアをくぐる。廊下には絨毯が敷かれていないので、私の足が鳴る。カツン、スタンと交互に。義足の音。靴の音。義足は靴よりも硬い。左脇にいる彼女の鳶色の明るいその瞳が輝いている。カレーのにおいが漂ってきた。
「カレーだ」
「うん、カレーですね」
廊下の先に向いている鳶色の目は、けれど何も映さない。光は感じる。映像の少ない彼女の楽しみは、主に何かの感触と何かの音。私の感触と音が楽しみになっていると良いなと思う。
ぐーっ、きゅるる、と左脇に抱えた小さな子から、お腹の鳴る音と感触が伝わってきて、食べることも楽しみの一つですね、と付け足した。廊下を鳴らしながら、カレーを頬張って満足そうにする彼女を思い浮かべる。成長した彼女の手を引いて、この廊下を並んで歩くところを思い浮かべる。
――シチューだ。
――うん、シチューですね。
光は感じる。ものの形はぼんやりとわかる。他の人がどういうふうに見えているのかは知らない。でもみんなそんなものだろうと、ぼんやりと思う。
夕食の時間なので、うちのメイドさんの彼女に手を引かれて食堂に向かう。家の廊下ならもう別に一人で歩けるのだけれど、そんなふうに手を繋いで並んで歩くのが習慣みたいになっていた。シチューのにおいが廊下を満たしている。クリームの甘いような香ばしいようないいにおい。ぐー、きゅるる、とお腹が鳴って、隣の彼女が軽く笑む気配が伝わってきた。
目が見えない。まったく見えないわけじゃないけれど、見えない部類に入るのだろう。わたしの目は鳶色をしているそうだ。鳶色がどんな色をしているのかはちょっとわからない。ただ、そのことを考えるといつも思い出すことがあった。
ずっと幼いころのこと。どこか慌てた様子で色の説明をした彼女のこと。鳶という鳥の話を聞いたこと。焦げ茶色と言ってから「ああ、えっと……」としばらく考え込んでしまった彼女のこと。それから、「とにかく、綺麗な色ですよ」と言われたこと。
わたしは思い立って、繋いでいた彼女の手を放して反対側に回った。彼女の左側から右側へ。左手で彼女の肩と背中を撫でながら。カツン、スタンという、彼女の義足と靴の足音を手で聞きながら。
彼女の右手は途中までしかなくて、先が丸くなっている。肩から腕をなぞるようにして、その丸みを握る。これも「手を繋ぐ」と言うのだろうか。毎回のように浮かぶ疑問が、丸みの柔らかさに消えていく。
すっと右手を彼女の顔のほうに伸ばすと、彼女のほうが顔を寄せてきてくれて、指先が頬に触れた。細かな凹凸のあるひんやりとした頬。火傷のあと。触っていると胸がざわついて、けれどどこか落ち着きもする。
ときどき、目が見えなくてよかったと思うことがある。こんなふうに彼女と手を繋げて、こんなふうに彼女の頬を触れる。ちゃんと目が見えていたら、きっとこうはならなかったんだろう。
苦笑のような吐息のような音が聞こえて、わたしはそっと彼女の頬から手を離した。名残惜しいけれど、またいつか。何時間か後か、何日か後に。
すうっと鼻から息を吸い込む。おいしそうなにおいが胸に満ちて、またお腹が鳴りそうな気がした。
「シチューだ」
「うん、シチューですね」