秒針のひびかない春 夏の木陰をしまった引き出し 風を透かして消えた秋 そしてまた一つ 白紙のページをやぶる冬
僕たちはひとつずつ ひとつずつ忘れてゆく ゆっくりと思い出すために 僕たちはひとつずつ ひとつずつ取り出しては捨ててゆく 大事なものをしまった小箱の とてもキレイなものから順に 忘れることのその先に 僕の思い出が待っているのなら いつかそっと 思い出すことができるだろう ある晴れた日に 風に乗って戻ってくるだろう 今日ここに置いてゆく ひとつの春の思い出も
いま 僕を通り過ぎてゆく 春が誘う 君の追い風 あの日の心さえ 真っすぐさらってゆくように それはきっと ほんの少しの霞む幻 君の夢で見た 花の肖像 光ってはプリズム 今は刺さったあの欠片も やがては僕のものになる 甘い傷跡だけが香る季節に 隣で鳴ったピアノ 遠くに聞こえる時計の秒針 ライラックの揺れる小窓 それは春の果てに立つ 優しい午後の昼下がり
ニナへ 今日はとてもきれいな夜だよ 月が近くて空が遠い、そんな夜だ。 今朝散歩の途中でとても面白いものを見つけたんだよ。 公園のお気に入りのベンチに張り紙がしてあってね、 ペンキ塗りたての注意書きだったんだけど。 その紙の端っこのほうに これはきみの大切なもの そう書いてあるのを見つけたんだ。 みつけた僕はとても嬉しくなった。 だっそれは僕の中に問いが生まれた瞬間だったから 問いが始まったと そう思えたから。 自分の大切なものは何だろうか 僕はそれがきちんと分か
僕には越えたいと願う夜がある その夜の向こう側へ だけど越えられない夜がそこにある 何度も踏み越えたいと願うたび 決して越えられない夜がそこにある ただ一夜 透明な夜が僕の目の前に広がって どこまでもどこまでも遠くへ続いてゆく まるでずっと同じ夜がそこにあるように まるで夜ごとに新しい夜が敷かれてゆくように 一夜 たった一夜 越えられない夜がそこにある 一夜 たった一夜 越えたい夜がそこにある 一夜 僕には越えたい夜がそこにある
薄衣をかぶった少女が ひとつの春を売っていました 春いかがですか おひとつ春はいかがですか きれいな春いかがですか どうぞおひとつ 昨日開いたばかりの春です すみれ色の声で 少女は道行く人に呼びかけます そこへ 青い瞳の少年が通りかかって 春売る少女へ手を差し出しました 春、ください 少女は 優しく笑って そっと春を差し出します それは一等きれいな春でした どうぞ とてもきれいな春ですよ 少年は 差し出された春を受けとって 少女にたずねます 何番目の春が好
冬の蝶は きれいな夢を見て飛んでいた それは一つの六方晶の夢 冬の蝶は さびしい影を見て飛んでいた それは一つ分の自分の孤影 冬の蝶は あたたかい声を見て飛んでいた それは昔教えてもらった 一つの春の数え方
初夏 木漏れ日が一段と美しくなる季節 久しぶりに楽しむ一人の休日 帰り道 お気に入りのショップのショーウィンドウを覗いてみる 新作のイヤリングに見とれていたら ふっと小さく風が吹いた 慌てて振り返る 振り向く先には誰もいない ただ五月の光る日差しと 人が行き交う光景があるだけ なんだ、と思う気持ちと ちょっと悔しいような気持ちと 振り返ったスピードに 自分でも驚いてしまって 思わず困った笑みがこぼれた もう一度 そっと風の行き先を見つめる あの香りが連れ