物語を作ろう!まず己のメンタルをめちゃめちゃにします。死ぬか死なないかのあわいでぷかぷかと浮いているとどこからか漂ってきた物語の欠片にぶつかります。その欠片に寄り添いながら全体を想像して継ぎ接ぎして最後に磨いて物語の完成です。果たしてこれが簡単かどうかは人により個人差があります。
必死になって叶った夢なんて今まで一つもなかった。今は肩の力を抜いてだらっと生きてる。より気楽に、より素直に。ここに私の幸せを建てようと思う。
誰も私を知らない街で、人生を新しくはじめたい。きっとそうすることでしか私は救われない。
もし「自分が救われるならこんなふうに」という救われ方に希望があるなら先に教えておいてくれ、話だけは聞く。
「はじまり」 これはとある悪魔の国にある、悪魔のためのお寺であった、とある悪徳を積むモノのお話。 悪魔の国のとある地域では「悪魔大王様」が信仰されていました。悪魔大王様は、牛のような二本の角を持つ頭に、つるつるの肌と二本の腕を持つ上半身と、黒い毛むくじゃらで蹄のついた二本の脚を持つ下半身という姿をしている、と伝説では語り継がれていました。 とある地域にある住宅街の中の小さなお寺でも悪魔大王様のブロンズ像が広い本堂の奥に鎮座していて、平日にはまばらな参拝客を受
夢を見る余裕が少しあったならなどと夢見る退屈な夜
睡眠薬が与えてくれるのは一晩の夢だけ。劇場でお芝居を観るのに似ている。
どんなに戸締まりをしても不幸は家の扉を勝手に開けて入ってくる。幸福は外に探しに行っても見つからないのに。
小さい頃から見る夢は時々繋がっていて。とても不思議だなぁ、と他人事のように思っている。その夢はスープを作る夢。 夢の始まりは、いつも決まって白い部屋の中に佇んでいるところから。 魔女や魔法使いが使う大きな黒い釜が部屋の真ん中にあるだけの小さな部屋。大釜はいつもぐつぐつと煮えているけれど火にかけられている訳でもなく、巨大なHIヒーターの上に置かれている訳でもない。僕はそれを別段不思議には思わない。そういうものなのだろう、と思っている。 大釜の前で佇む僕、手には何やら
不意にここの存在を思い出したので、今日は私がよくみる不思議な夢の話します。 三十年ちょっと生きてきて、今までお付き合いした人は一人。 正直にいうと、恋愛として好きだったのかどうかはわからない。友達としては好きだったから相手に好きだと言われてその気になっていただけなのかもしれないと、時々あの頃を振り返っては思う。 今は、というより今までずっと、結婚願望も子供が欲しい気持ちもない。 恋人よりも人生を楽しく一緒に生きてくれる友人が男女問わず欲しい。 こんな私だが、この気持ち恋
お日様の沈み切った後の わずかな命の仄灯り 灯りを点したあの雲は いつかの私の悲しみに似ている 紫色で 桃色で 橙色で そしてほんのちょっとだけ 空色な 透きとおる闇に ぼんやり灯る 私の涙 悲しみが時を経て あんなにかわいくあわい 幼い夢のような輝きになって 私の元に帰るなら もうちょっと生きてみよう さよなら 夕焼け 仄灯り 雲の灯籠 明日はどんな色
もし夢が叶うなら あの日の私にご飯を作ってあげたい お腹を空かせたちいさな私に おおきなステーキを焼いて 付け合わせにはバターコーン あたたかいコーンクリームスープと 炊き立てのごはんを用意して デザートのチョコレートケーキも忘れずに そうやって私は あの日の私を救ってあげたい 目が輝くほどのご馳走で お腹が空いて眠れない あの頃の私を救ってあげたい それがたとえ一日だけでも 空腹は絶望だ カーテンに遮られた 仄暗い部屋のように 空
死ぬなら幸せな日の夜に、と決めている 観劇の後の感動の中で ライブの後の興奮の中で 遊園地の帰り道の眠気の中で 今が一番幸せだなぁと死んでいきたい 不幸に喘ぎながら死ぬのなんて御免だ 私の人生は幸せだったと死んでいきたい 果てしなく続く明日に 夢見て死んでいきたい 死ぬなら絶対幸せな日の夜に 死ぬのにぴったりの幸せを 死ぬのにぴったりの夜を探して それまでは、死んだって生きてやる
子供のままじゃ生きてゆけず 大人のままじゃ死んでゆけず ならばこの世で獲得した己は 一体何の意味があるのだろうか ただ一時 己を守るだけの意味しか無いのだろうか 老いて子供に戻るのは それもまた己を守る為なのだろうか ならばこの世で獲得した己は あの世には持っていけないのだろうか
しあわせは白熱灯の灯りである。 小学生の頃、寝室で白熱電球を使っていた記憶がそう思わせるのだろうか? ただただ、漠然と、白熱灯の灯りに照らされていると「きっとしあわせはこんないろをしている」と感じるのだ。私にとって白熱灯の灯りはしあわせの象徴なのである。 たった四畳半の部屋が白熱灯の暖色に包まれるだけでしあわせになれるとは我ながらお手軽であるが、ここ数年の私はそうしてしあわせの色を身近に感じていないと“しあわせ”を見失ってしまいそうなのかもしれない。 しあわせをはかるも