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はじめに

 表現することに臆することになったので、書く機会を失っていました。昭和の青春時代を過ごした僕に、ネット社会はスゴイなと思わせるのは、その反響です。SNSのフォロワーが100人程度の僕ですら、ブログをアップすれば見ず知らずの方からお便りをいただいたりするのです。要するに色々な人が僕の書いた文章を読むわけです。商売上関係がある方々から自社の社員にいたるまで。マスへの影響力がない僕の文章ですら、僕に関わる人は読むので、関係する人が増えていくにつれ、立場という概念が強くなるにつれ、表現しづらくなり、僕はブログをやめました。

 ただ、書くことは悪いことではなく、それを公表することも含めて、自らの考えを整理したり、その記録を振り返ったりすることには、役にたつものです。言動を省みたり、眩しい思い出にひたったり。
 日記です。お盆が過ぎて、慌てて1か月の記憶をたどり書いた夏休みの宿題ではなく、そのときどきに思ったことを徒然なるままに記すものです。この習慣を再開しようと思い立ちました。漫然と日々を過ごしている自分を律しようという思いもあるし、コロナ禍で行動が制限されていても、思考は成長し、志は育まれることも解ったので、その過程を記そうと思いました。

 日本人は、日記好きといわれます。年末に多種多様の日記が書店の店頭を飾るのは日本だけだそうです。日記好きの理由は、日本人が個人的な会話が非常に下手な点や、夜寝る前のお祈りがない点が挙げられますが、日本文化研究の第一人者であるドナルド・キーンは、日記を付ける行為が、「日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」と述べたそうです。DNAなのでしょう。記し、省みる民族なのでしょう。
 マジメと評される日本人のこのような気質が僕にもありそうなので、それに逆らわず記していこうと思います。

 ここ数年、いくつかのテーマをもって歩んでいました。「個」か「組織」か、「オンライン」か「オフライン」か、等々、なんとなく対になる概念を比較しながら、本質を追求していたような気がしています。
 その作業の中で、真実や正義は一つではなく、実に多面的で、相対的だと思いました。時代背景によって、地域によって、価値は多様化し、様々な物差しが、生まれてはなくなりしています。空の色も見る人によって、違う色に見えるのでしょう。揺れ動く世界の中で、何が本質なのか。いま僕は、また求め、表現し始めます。

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