タイトル:交差する身体たちに手をのばして
執筆者:pegさん
絵画のまえで私は目だけになる。画家が立っていた場所にいて、彼らの視線を追体験するように目に意識を集中させていると、私は身体のことをすっかり忘れてしまうのだ。
中谷優希の個展「ふわふわの毛をむしる」を見た。大きく開いたガラス戸からは気持ちのいい風が吹き込み、併設のカフェからはコーヒーのいい匂いが漂ってくる。床に敷かれたゴザの上にはクッションが並べられ、入口で渡されたフィジェット・トイで手遊びをしながら作品を鑑賞する。作品の音は時折、近くを通りすぎる車に遮られることさえあった。視覚を優先したホワイトキューブの展示室とは異なる、穏やかで開放的な空間の中で、私は自分の身体を思い出した。
中谷は自身が患っている精神疾患と作品を切り離すことなく、むしろ重ね合わせながら制作活動を行なっている。展示されていたパフォーマンス映像作品《scapegoat》、《シロクマの修復師》のなかで彼女は、不安定な姿勢を保ち続ける、幅数メートルの間での往復を1時間近く繰り返すといった自らが作り出した過酷な状況の中で、次第に彼女は演技としてではなく、本当に疲弊していく。
気がつくと私は、そこに映しだされている光景よりも、彼女の息遣いや声の震えをきっかけとして、映像の中にある身体を掴み取ろうとしていた。そして目が遠ざかっていった。パニックが起きている時、私はいつもお腹を手で触って、胃の辺りがバクバクと動いているのを感じていたことを思い出した。頭は混乱していても、その鼓動によって「今は発作が起きている」と理解することができた。それは目に見えにくい症状を、その輪郭に触れることで確かめる行為なのだと思った。
画家が目で絵を見ながら制作するように、中谷にとっての制作行為は、自分の身体の鼓動や熱に触れ、その感覚を確かめていくような作業なのかもしれない。そして中谷が動物を自分の身体に移植するように、私もまた、彼女の身体を自分に移植し、新しい身体へと再構築するのだった。それは鑑賞体験から目が遠ざかり、身体が取り戻されていくような、初めての感覚だった。