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中谷優希「ふわふわの毛をむしる」展レビュー完成/完成までのプロセス公開

タイトル:交差する身体たちに手をのばして
執筆者:pegさん

 絵画のまえで私は目だけになる。画家が立っていた場所にいて、彼らの視線を追体験するように目に意識を集中させていると、私は身体のことをすっかり忘れてしまうのだ。
 中谷優希の個展「ふわふわの毛をむしる」を見た。大きく開いたガラス戸からは気持ちのいい風が吹き込み、併設のカフェからはコーヒーのいい匂いが漂ってくる。床に敷かれたゴザの上にはクッションが並べられ、入口で渡されたフィジェット・トイで手遊びをしながら作品を鑑賞する。作品の音は時折、近くを通りすぎる車に遮られることさえあった。視覚を優先したホワイトキューブの展示室とは異なる、穏やかで開放的な空間の中で、私は自分の身体を思い出した。
 中谷は自身が患っている精神疾患と作品を切り離すことなく、むしろ重ね合わせながら制作活動を行なっている。展示されていたパフォーマンス映像作品《scapegoat》、《シロクマの修復師》のなかで彼女は、不安定な姿勢を保ち続ける、幅数メートルの間での往復を1時間近く繰り返すといった自らが作り出した過酷な状況の中で、次第に彼女は演技としてではなく、本当に疲弊していく。
 気がつくと私は、そこに映しだされている光景よりも、彼女の息遣いや声の震えをきっかけとして、映像の中にある身体を掴み取ろうとしていた。そして目が遠ざかっていった。パニックが起きている時、私はいつもお腹を手で触って、胃の辺りがバクバクと動いているのを感じていたことを思い出した。頭は混乱していても、その鼓動によって「今は発作が起きている」と理解することができた。それは目に見えにくい症状を、その輪郭に触れることで確かめる行為なのだと思った。
 画家が目で絵を見ながら制作するように、中谷にとっての制作行為は、自分の身体の鼓動や熱に触れ、その感覚を確かめていくような作業なのかもしれない。そして中谷が動物を自分の身体に移植するように、私もまた、彼女の身体を自分に移植し、新しい身体へと再構築するのだった。それは鑑賞体験から目が遠ざかり、身体が取り戻されていくような、初めての感覚だった。

*このレビューが完成するまで。
ウェブだけどしっかりと校閲をして、時間をかけてひとつのレビューを書いてみようと始まった新企画「800」。二人一組でコンビを組んでいただいて、レビューを執筆してもらっています。
 今回の執筆者はpegさん、校閲者はねじおさん。pegさんは都内の美大を卒業し、いまは関東近郊のアートスペースに勤務し、ねじおさんは神戸在住で、クリエイティブコーディングで制作をされている方です。おふたりとも展示をよく見にいかれているようで、そのなかでpegさんが選ばれたのが、中谷優希さんの「ふわふわの毛をむしる」展でした。
 以下では、その初稿から校閲者とみなみしまのコメント、編集に平行して行われた文章を書くことをめぐるやりとりを紹介したいと思います。完成に至るまでのプロセスには、展示を見ることやそれについて書くことについて重要な気づきがたくさんありました。そのいくつかがみなさんにも伝わったらいいなと思っています。

【pegさんから最初に届いたレビュー】
*1、2、3、4は、ねじおさんからのコメントがあった部分です。

カフェ併設のギャラリースペースに敷かれたゴザとクッション。映像作品の尺が1時間あるため、鑑賞しながら手遊びができる遊具が渡された(*1)。大きく開いた窓からは気持ちの良い風が通り抜けて、コーヒーの匂いや道路を走る車の音も受け入れる開放的な展示空間は、最も症状が酷かった頃の作家本人が見に来られるような環境を目指したという。
 症状というのはつまり、彼女が患っている精神疾患のことを指している。展示会場には「パニック・不安・メルトダウン・フラッシュバック対処のルール」を書いたメモが壁に貼られていた。
 今回は動物園の檻の中で同じ場所を往復し歩き続けるシロクマのミルクちゃんと、人間が犯した罪を背負って生贄として捧げられたヤギであるスケープゴートを自身の身体に「移植」したパフォーマンス映像作品2点が展示。制作を通して無意識に「ドラマセラピー」を行なっていたと本人が仮説を立てているように、その手順は症状が現れたときの対処のルールと重なる点がいくつかみられた。
 例えば展覧会タイトルの通り、2作品には共通してシロクマあるいはヤギの毛をむしる(むしられる)行為が含まれている。「むしる」という動詞は、本体に密着していたものを引きちぎり、引き抜くといった意味を持っていて、《シロクマの修復師》(2022)において中谷が「わたしたちは、これが症状であり、これは自分の人となりではないと、このふたつを理性的に分けることを行った」と何度も繰り返し声に出して言うように、毛をむしることで次第に人間の肌色が見えるようになる演出は、症状が彼女の周りをあくまで覆っているだけに過ぎず、自分自身と切り離すことが可能であるというイメージを連想させた。
 パートナーと共に、普段から病気に対するケア(*2)を実践している中谷。目には見えない症状(*3)とそのケアに関する一貫した姿勢が制作期間から鑑賞体験にまで及び、私はいわゆる作品ではなく、彼らの「修復の手つき」(*4)を見たのだと思った。

*1 前半部分と後半部分の論理関係が少しあいまいだと感じたので、どういう意図で遊具が渡されたのか?を明らかにした方がいいのではないかと思いました。また、どういう遊具だったのか?気になります。最後の文に「手つき」と使ったように、この部分も手に関する事柄だと思われます。本当に主観ですが、pegさんはこの展示を手触りとして感じとった部分が大きかったのかな、と思うので手でさわる感覚を文のなかで強調してもいいのかもしれないです。もちろん、「手」というのは物理定な手以外も含まれると思うので、pegさんなりの手触りを感じたいと思います。どのように遊具で遊び、映像とともにどのように感じられたのか、も手に関して重要な情報かと思いますので、そのあたりもう少し説明が欲しいと感じました。
*2 いくつかの記事には、「パートナーから日常生活のケアを受けながら」とあります。このレビューではパートナーだけではなく、自身もケアする人として在ることを示しているので、もしかすると「病気に対するケア」という表現も適切なのかもしれません。が、中谷さん自身は、精神疾患のないパートナーと、精神疾患のある中谷さんが相互にケアし合う関係を大事にしているようなので、日常生活のケア、とした方がよいのかもしれません。ケアは一方的ではないこと、双方向的なケアのあり方を中谷さんが日々模索・実践していることも盛り込んでもいいかもしれないですね
*3 目には「見えにくい」とした方がいいのかも、と思いました。実際に目で見えないわけではないと思うので。しかし精神疾患が目に見えにくいという問題はあります。
*4 この部分は文章の肝であると感じます。わたしはこの部分に関して非常に悩みました。そのままでいいのか、どうなのか……。一つ思ったのは、中谷さんの言葉のまま「修復の手つき」という言葉を使っていいのかどうかです。pegさんがそこで見たものは本当に「修復の手つき」だったのでしょうか。ここからは本当にわたし個人の考えで、わたしが入りすぎて適切な言い方になっていないかもしれないのですが……修復という言葉は本当に正しいのだろうかと思いました。修復という言葉は、元に戻すというニュアンスが含まれていると思います。物理的なものに対し、修復という言葉を使う場合は問題ないと思います。しかし、これはわたし自身が精神障害に長年悩まされているから思うことでもあるのですが、人(生きているもの)は元に戻るのでしょうか。生き続けた歴史を身体に刻み込むように人は生きていると思います。精神疾患の治療では、いったん悪くなってしまった状態から、過去の元気な状態を目指して治療するようなやり方がたしかにあります(もちろんそうでないのもあります)。しかしそれは悪くなった状態の今の自分を否定するような行為ではないかと思うのです。仮に体調が良くなった今の状態があったとしても、その身体は体調の悪かった過去を刻んでいて、悪かった過去から何とか試行錯誤して立ち現れた今だと思うのです。たしかに中谷さんは修復という言葉を選んでいますが、見るわたしたちがまるで悪い時代を否定するように「修復」という言葉を使っていいのか。少し疑問に思いました。わたしの想いが入りすぎているので、まとはずれな意見だったらすいません。

【ねじおさんからレビューを読んだ全体的な印象】
 文章という形式に縛られているように感じました。pegさんはこの展示によって走り書きしたメモがあるとおっしゃっていましたが、その走り書きで書いたものを見てみたいと思いました。もしかしたらその走り書きの中に形式、レビューという括りに縛られないものがあるのではと思ったからです。
 また、pegさんがこの展示を大事に思っているということがよく伝わりました。レビューとともに送ってくださった文章の中に、作家の表現に対して誤解を生むような描写をしていないか、という言葉があり、言葉の端々に気を配りながら、慎重に言葉を紡いでいるのだと感じられました。それはこの文章自体を読んでも感じられることです。何より、pegさんがこの展示も中谷さんのことも好きなんだなと素直に感じました。pegさん自身の作品に向き合う態度・姿勢を感じられることが、この展示レビューにおいて大事なことではないかと思いました。
 これは提案ですが、一度見ても大丈夫な範囲でpegさんのメモを見てみたいと思いました。レビューでは肝心な部分が中谷さんの言葉の引用だったりして、実際のpegさんはどうだったのだろう、と少し気になりました。また、メモから文章を再構成できる可能性もあるかもしれないと思いました。そして校正を行う中で感じたことは、これも手触りのある行為だな……と。お互いに手探りで進んでいく様子が、この展示から受け取ったものと少し似ているのではないかと思いました。大切な文章を読ませていただきありがとうございました。

【pegさんから校閲への返信】
校正ありがとうございました。文章に対してこんなに丁寧なコメントをいただいたのは初めてで、とても勉強になります!嬉しいです! メモの一部をお送りします。展示を見た後に考え浮かんだことを適当に書いたものです。もしも気になる箇所がありましたら教えていただきたいです。

pegさんの手書きメモ1
pegさんの手書きメモ2

ねじおさんからの校正で「手触り」「手つき」といった言葉をピックアップしていただいたことをきっかけに、何となくですが、「手」というキーワードを中心に置いて文章を書き換えようと思ってます!

【ねじおさんからの返信】
まずメモを取っている紙の質感がとてもいいなと感じました。あまり関係ないことですいません。中谷さんが作品の中で、自身に対する鑑賞行為も含めているということから、pegさんが制作前や鑑賞前(メモ一枚目の中心部の円をそのように捉えました)の状態について考えているのがおもしろいなと思いました。またその中で、「展評における体調や気分といった筆者の身体の不在」とメモしてあるのもおもしろいなと思いました。制作前→制作→作品のようにレビューも鑑賞前→鑑賞→レビューという展開ができるんじゃないかと。pegさんが冒頭に「疲れたから展示を見に行こうという初体験」と書いていたのがとても印象的でした。そのように鑑賞前の状態を提示し、鑑賞により身体が何らかの変遷をたどる状態を観察することは、鑑賞を通じて自身をケアしているようでもありますし(展評もひとつの外在化ですよね)、何より展評に筆者の身体を宿らせることができるのではないかと思いました。鑑賞前の状態はきっとこの展示のかなめでもあると思います。pegさんが疲れているときに行こうと思った、そして実際に行けたということも大事な事なんだなと思いました。 「内側にある(と思われている)」という記述もとても大事な部分だなと思いました。 あと疑問に思ったところなのですが、メモ二枚目の最後、「とてもよい意味で不能にならないこと」とはどういうことなんだろうと思いました。

【pegさんからの返信】
メモを見ていただきありがとうございます。メモする紙とペンにはこだわりがあるので質感を褒めていただけてめちゃくちゃ嬉しいです…パートナーである杉浦さんが、中谷さんが望んでいる限り、彼女が「制作活動を続けられる状態」を目指してケアを行っていると話していたことが印象に残っています。つまり、図上の「制作前」「鑑賞前」というのは単なる直前といった意味のみならず、制作が作品を作るための行為であるように、制作の前、制作を行うまでの時間?準備?に対して私たちは結構無関心なのかもと思ったんです。 例えば私も、精神疾患の症状が激しいときはベッドから起き上がれないときがあるし、もっと日常的には靴擦れで足が痛いとか気分が乗らないとか、15分以上ある映像作品の前にイスがないだとかの些細な要因で、いわゆる「鑑賞行為」まで辿り着けないことが沢山あるし、見ているつもりで見ていないような時もあります。といった意味も含めて、2枚目の「とても良い意味で不能にならないこと」が大切だと考えました。制作されなければ、鑑賞されなければ、たとえそこにあっても作品は立ち現れてこないものだと個人的には思っています。「不能にならないこと」と言うと消極的な印象がありますが、精神の病を持っていても、いなくても、それはすごく大事だけど見落とされがちなことのような気がして、中谷さんの今回の展示はその点をしっかり掬って明らかにしていました。
 「筆者の身体の不在」というのは以前から展評に対して考え悩んでいたことです。基本の?展覧会評は、ある程度、客観的な目線で作品や空間を見ているような印象を持っています。しかし私は、自分の前後の状態(直近直後~人生全体)がその瞬間の鑑賞体験に対してかなり影響を与えているという自覚が強く、ではどのように展評を書けばいいのか、すごく難しいことのように感じていました。 筆者の私情が挟まった展覧会評に果たして意味があるのかはわかりませんが、一度既存の形式に捉われすぎないことを意識しながら、少し個人的な感想文のような文章を書いてみたいと思うのですが、どうでしょうか…。

【ねじおさんからの返信】
返信遅くなってしまってすいません。感想文のように書くこと、とてもいいと思いますし、わたしは一番最初のpegさんの文章を読んだときから、pegさんの感覚を知りたいと思っていました。展示を通して、展示前の状態から展示後へどう移り変わっていったか、それは展示が与えるものだと思いますし、展示の影響を描くことは展評として成り立つのではないかと思いました。修復という言葉に関する違和感も含め、批判的でありながら感覚をも評することはきっとできるんじゃないかなと思います!
 展評は目で見、目で観察し、頭で考えるものかなと思いますが(ここはわたしの知識不足も正直あるので間違っているかもしれません)、身体で考えたり、身体で見るのも展評のあり方かなと思います。

【pegさんからの返信】
ありがとうございます!ねじおさんの仰ってくれたように、一度文章という形式に囚われすぎず、私の感覚を素直に書いてみることに挑戦してみます。ありがとうございます。

>そのあとに届いた改訂稿の細かい表現をみなみしまが微調整したものが、冒頭にあげた完成稿になります。pegさんは完成稿にあわせてこんなコメントを寄せていました。

【pegさんの完成稿への補足】
久しぶりに執筆に取り組んでみて感じたのは、私はかなり文章を書くのが苦手だということでした。(執筆者として希望を出したのにもかかわらず、すみません…)
 提出まで時間を延ばしている間、文章を立ち上げては納得がいかず白紙に戻すことを何度も繰り返していました。ねじおさんにメモを見てもらい、「疲れていた」という状態を含む私の個人的な感覚を文章に入れていくように心がけていても、最終的に書き上がったものは自分の感覚からは遠く離れたような無機質なテキストでした。
 あまりにもセンスがなさすぎる自分に引きつつも、今この短期間で執筆スキルを格段に上げるというのは無謀な話で、どうしようか…と悩んだ結果、「感想話を録音したものをメモとして書き起こし、紙の上で構成を変え、パソコンに落とし込んだあとは文章をいじくりまわさない」という手順で書いたものを提出しました。殴り書きされたメモが均質なフォントに変わることで発する違和感を取り払うため、構成や言い回しを整えているうちに、どんどんと無味乾燥な言葉になっている気がして、なるべくパソコン上での作業を減らしたいと思ったことが理由です。
 アドリブで話したことで、大事な「修復」に関する内容がなくなってしまいました。ただ、ねじおさんからのアドバイスに後押しされて、個人的なものに向かって走っていけた感覚がありました
 なんとなく、自分の中では無機質さを少し打ち破れた感じがしていますが、文章としての完成度はまだまだだと思います。
 校正作業、どうぞよろしくお願いします。何か気になる点があればお気軽にご連絡ください。

>以上が、このレビューが完成するまでの編集作業でした。校閲といいながら、編集全般をpegさんとねじおさんにやっていただきました。文章も作品と一緒で完成形になってはじめて提示することが、書き手や作家にとっての正しい態度として理解されている部分があると思いますが、本展に対するレビューの場合は、こうした形でpegさんが展示で得た「手触り」を右往左往しながら、言葉に変えていくプロセスを見せることが、結果としては、いち鑑賞者からのよき応答になったような気がしています。
pegさん、ねじおさんありがとうございました。

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